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 それは不思議な光景だった。

 アリゾナ州ツーソンから南西に100キロほど下った荒野の砂漠。周囲には地面に突き刺さった無数の柱と鉄条網が続いている。でっぷりと太った黒髪の男はタイヤのついた鉄柵の前に立つと、力一杯ゲートを押した。そのままゲートの向こう側に歩いて行く。

 「ここはもうメキシコだ。あなた方が来ても戻れないよ」

 男はそう言うと、再びこちら側に戻ってきた。遠巻きに国境警備隊が眺めているが、問題視している様子はない。

 この場所はトホノ・オーダム・ネーション・レザベーションにあるサンミゲル・ゲート。ネーションの“首都”セルズから30分ほど南に下ったところにある、グーグルマップにも載っていない小さな国境ゲートだ。普通のアメリカ人や旅行者がこのゲートを通った場合、20マイル(32キロ)ほど離れたササベの出入国ゲートまで行かなければ再入国できない。

 周囲の風景は米国もメキシコも変わらない。吸っている空気も同じ。ゲートに寄りかかって手を伸ばせば、向こう側の草木にだって触ることができる。だが、戻ってこられないと聞くと、ここには見えない壁があるということに改めて気づく。

 午前9時だが、気温は優に30度を超えている。試しにゲートを越えてみようと思ったが、ササベまで歩くのは正直キツい。

トホノ・オーダム・ネーションにあるサンミゲル・ゲート

 トホノ・オーダム・ネーションはアリゾナ州に21あるインディアン居留地の一つだ。トホノ・オーダムとはトホノ語で「砂漠の民」という意。数千年の昔から米国とメキシコにまたがるソノラ砂漠で遊牧生活を送ってきた。

 彼らの居留地は灌木ばかりの荒野だが、コネチカット州がすっぽりと入るほどの広さを誇る。その“領土”は、同じインディアン居留地の中でもアリゾナ州やニューメキシコ州、ユタ州にまたがるナバホ族、ユタ州のユト族(ユーインタ・アンド・オウレイ)に次ぐ3番目の広さだ。トホノ・オーダム族は全世界に2万4000人ほどいるが、この広大な地域に住む人はわずか1万人に過ぎない。

 ゲートを行き来した黒髪の男、バーロン・ホセはトホノ・オーダム評議会の副議長を務める。トホノ・オーダムを含むインディアン居留地は連邦政府や州政府と同様に行政府や立法府、司法府を持つ。議長と副議長を選ぶのは立法府である評議会議員なので厳密には異なるが、バーロンはネーションの副大統領のような存在だ。

トホノ・オーダム評議会の副議長を務めるバーロン・ホセ

 ネーションは11の行政区に分かれており、一つの行政区から2人が評議会議員に選ばれる。インディアン居留地をレザベーションと呼ぶのは、連邦政府が取っておいた(リザーブした)土地に彼らを移住させた経緯による。

 なぜバーロンだけがゲートを行き来できるのか。それは、トホノ・オーダム族に発効された特殊な部族ID(パスポート)を持っているためだ。それでは、なぜそのようなIDが存在するのか。そこには国家に翻弄された彼らの数奇な物語がある。