日本のアパレル企業は高度経済成長期からバブル期にかけて海外ブランドとライセンス契約を結び、国内で事業展開することで大きく成長してきた。しかし、ビジネス規模が順調に大きくなるにつれて契約を解消され、主力ブランドを失って大きな痛手を負う企業も少なくない。高級ダウンジャケットの代名詞ともなった伊モンクレールを扱う八木通商の八木雄三社長に、海外ブランドビジネスに関する本音を聞いた。
モンクレールは高級ダウンジャケットとして日本市場でも定着しつつあるように見えます。ただ、ここまで成長するまでには苦労もあったようですね。
八木雄三社長(以下、八木):1970年代に別ブランドでダウンジャケットを売り出したんですが、取り扱ってくれるようなお店がなかったので、最終的にハンティング用品を扱う店に売りに行きました(笑)。ダウンを普段着にするという文化自体がなかったんですね。でも、ファッション性の高いダウンがいずれ普及するという確信は、この頃から持っていました。
モンクレールに出会ったのが1995年です。我々も色々と苦労してきましたが、モンクレール自体も苦労の連続でした。何度も事業が立ち行かなくなって、そのたびに主要株主が変わるという、上がり下がりをずっと見てきました。それでも、このブランドと製品を信じて投資し続けてきました。「埋もれていた宝を見つけ、賭けに勝った」という面がありますね。
モンクレールを扱う日本の合弁会社の資本構成は、本国が51%で八木通商が49%。先方が更新時期に契約を見直したいと言い出す可能性は、常にあります。
八木:そうです。僕は常にそれを覚悟して経営しています。合弁契約は5年で見直しがあるんですが、「最初の5年だけかな」と思っていたら、今に至るまで契約が続いています。モンクレールのレモ・ルッフィーニ会長とは、合弁会社設立前にある契約を巡って揉めましてね(笑)。非常に厳しい交渉を8カ月間にわたって続けたことがあります。
でも、だからこそ苦労を共にしたという経験があり、強いつながりになっています。今やモンクレールは大きく成長し、一流企業としてあらゆる機能を持っています。人材もシステムもそうです。八木通商の機能をそんなに必要としているとは思いませんが、我々の意見を聞きたいと思ってくれているのかもしれません。幸いなことに、この合弁関係はしばらく続くと思います。
モンクレールはドイツや米国などは自前で事業展開しているんですが、不思議なことに合弁を通じてやっている日本が、一番利益率が高いんです。モンクレールの国内売上高は年間200億円程度です。今年は1~9月の時点で前年比17%アップしており、ダウンなどの重衣料が本格的に売れる時期より前から、好調に推移できています。
事業を拡大しようとする海外ブランドが、どこかの時点で現地のパートナーと別れるのはある意味で当たり前のことでしょう。うちが逆の立場でもそう考えます。だから、我々が保有しているブランドを早く育て上げたい。これは常に頭に入れていています。ただ、モンクレール程の大型ブランドを一つのブランドで代替するのは無理でしょう。日本に進出しているブランドで、日本側のパートナーに満足していないケースが沢山あるので、ここから新たな投資先を選んでいきたいですね。
マッキントッシュは「まだ途上」
モンクレールに次ぐ柱として、子会社化した「英マッキントッシュ」を据えています。ただ、三陽商会の手掛ける同ブランドのライセンス事業は苦戦していますね。
八木:ビジネス上の関係があるのであまり具体的なお話しはできませんが、一つだけ言えることは、マッキントッシュに関して我々の展開するラグジュアリー事業も、三陽商会のライセンス事業も、まだまだ途上だということです。
例えばの話として、ブランドの本社が弱っていた時に、買うなり資本参加するなりしたらよかったという意見もありますが、現地で経営するのがどれだけ大変か。資本が必要な会社ということは、明らかに事業が弱っているので、資金も人もつぎ込まなければいけません。そういう難しさがあるんです。
日本のアパレル企業はここ数年のリストラを経て、足元で利益率が改善しています。ただ、本質的なビジネスモデルの変化に対応できている大手企業は少なく、苦境はこれからも続くように見えるのですが。
八木:ラグジュアリーブランドとファストファッション以外、つまり消費者に対するメッセージがはっきりしていないブランドの市場は、競争の激しい“レッドオーシャン”の傾向が強くなっていくでしょうね。大量生産でどの百貨店の売り場にもある同じような商品に、消費者はますます興味を示さなくなるでしょう。
日本市場でこれから起こるのは、さらなる淘汰だと思います。需要以上に供給側が多い。どんなビジネスにも適正なサイズがあります。
例えば、モンクレールは百貨店などの出店要請をほとんど断り続けています。難しい判断ですが「敢えて出さない」という方針です。モンクレール本体にはファンドの資本が入っており、株主からのプレッシャーも厳しい。「日本ではもっと伸びるはずなのに、なんで店を出さないのか」と。例えば米国のブランドなどは一度成功すると大量に店を出す傾向にありますが、そうなるとブランドが消費されるスピードが速くなります。投資家に対して、「ラグジュアリーブランドは中長期に成長するため、一度に大量に店を出したりはしない」と明確に説明できないと、ビジネス自体がおかしくなります。
日本のブランドに元気がないのは寂しいですが、それも仕方ないように思います。まだ東京コレクションが華やかだった頃、「海外で路面店やファッションショーをやりたい」といきなり言ってくるブランドは沢山ありました。でも、まずは現地の有名セレクトショップなどに置かれ、実際に売れて評価されていくというのが筋でしょう。その手順を飛び越えるような考え方ではダメです。
「モノ作り」ばかり主張してどうする
日本のアパレル企業は「モノ作り」ばかり主張していますが、それはあくまで事業の半分です。確かに日本の素材は今でも凄い力がありますが、良い生地で良い縫製をするのは、もはや日本人でなくてもできます。それこそ、中国でもタイでもできるんです。
モノ作りが半分で、残りの半分は「どうやって売るか」でしょう。それを分からないまま、産地の経営者や職人を海外に引っ張っていって、展示会してどうなるんですか。名刺は沢山もらえるでしょうけど、それがビジネスにつながるとは思えません。
八木社長が海外ブランドの輸入ビジネスに関わるようになったのは、どういう経緯からでしょうか。
八木:米国でMBA(経営学修士)を取得した後、現地の会社に就職しようとしたところ、先代に説得されてこの会社に入り、世界中に行商に行くようになりました。でも、良い市場はすでに総合商社が押さえています。対する僕は1人ですからね。シリアやイランなど、政情が安定していない場所に行くしかなかった。よくまだ生きているなと思います(笑)でも、自分で直接交渉するやり方は、その後のビジネスの基本になりました。ルッフィーニ会長や他のブランド経営者とも、自ら交渉しなければここまでの関係にはなれなかったでしょう。
八木通商は1971年、為替相場の変動をきっかけに輸出から輸入の会社に大転換しました。多くの企業はプラザ合意(1985年)の頃に転換しましたが、我々は一足先にスミソニアン協定(1971年)の頃ですね。世界を回るにつれて「円が強くなるのは避けられない」と感じていたので、29歳の時にミラノに輸入の会社を作り、これが今に繋がっています。まあ、この時もたった一人で始めたんですけどね(笑)。
なぜ、アパレル業界は過去に例がない程の不振に見舞われたのか。経済誌「日経ビジネス」の記者が、アパレル産業を構成するサプライチェーンのすべてをくまなく取材した書籍『誰がアパレルを殺すのか』が2017年5月、発売された。
業界を代表するアパレル企業や百貨店の経営者から、アパレル各社の不良在庫を買い取る在庫処分業者、売り場に立つ販売員など、幅広い関係者への取材を通して、不振の原因を探った。この1冊を読めば、アパレル産業の「今」と「未来」が鮮明に見えるはずだ。
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