例えば、モンクレールは百貨店などの出店要請をほとんど断り続けています。難しい判断ですが「敢えて出さない」という方針です。モンクレール本体にはファンドの資本が入っており、株主からのプレッシャーも厳しい。「日本ではもっと伸びるはずなのに、なんで店を出さないのか」と。例えば米国のブランドなどは一度成功すると大量に店を出す傾向にありますが、そうなるとブランドが消費されるスピードが速くなります。投資家に対して、「ラグジュアリーブランドは中長期に成長するため、一度に大量に店を出したりはしない」と明確に説明できないと、ビジネス自体がおかしくなります。

 日本のブランドに元気がないのは寂しいですが、それも仕方ないように思います。まだ東京コレクションが華やかだった頃、「海外で路面店やファッションショーをやりたい」といきなり言ってくるブランドは沢山ありました。でも、まずは現地の有名セレクトショップなどに置かれ、実際に売れて評価されていくというのが筋でしょう。その手順を飛び越えるような考え方ではダメです。

「モノ作り」ばかり主張してどうする

 日本のアパレル企業は「モノ作り」ばかり主張していますが、それはあくまで事業の半分です。確かに日本の素材は今でも凄い力がありますが、良い生地で良い縫製をするのは、もはや日本人でなくてもできます。それこそ、中国でもタイでもできるんです。

 モノ作りが半分で、残りの半分は「どうやって売るか」でしょう。それを分からないまま、産地の経営者や職人を海外に引っ張っていって、展示会してどうなるんですか。名刺は沢山もらえるでしょうけど、それがビジネスにつながるとは思えません。

八木社長が海外ブランドの輸入ビジネスに関わるようになったのは、どういう経緯からでしょうか。

八木:米国でMBA(経営学修士)を取得した後、現地の会社に就職しようとしたところ、先代に説得されてこの会社に入り、世界中に行商に行くようになりました。でも、良い市場はすでに総合商社が押さえています。対する僕は1人ですからね。シリアやイランなど、政情が安定していない場所に行くしかなかった。よくまだ生きているなと思います(笑)でも、自分で直接交渉するやり方は、その後のビジネスの基本になりました。ルッフィーニ会長や他のブランド経営者とも、自ら交渉しなければここまでの関係にはなれなかったでしょう。

 八木通商は1971年、為替相場の変動をきっかけに輸出から輸入の会社に大転換しました。多くの企業はプラザ合意(1985年)の頃に転換しましたが、我々は一足先にスミソニアン協定(1971年)の頃ですね。世界を回るにつれて「円が強くなるのは避けられない」と感じていたので、29歳の時にミラノに輸入の会社を作り、これが今に繋がっています。まあ、この時もたった一人で始めたんですけどね(笑)。

 なぜ、アパレル業界は過去に例がない程の不振に見舞われたのか。経済誌「日経ビジネス」の記者が、アパレル産業を構成するサプライチェーンのすべてをくまなく取材した書籍『誰がアパレルを殺すのか』が2017年5月、発売された。

 業界を代表するアパレル企業や百貨店の経営者から、アパレル各社の不良在庫を買い取る在庫処分業者、売り場に立つ販売員など、幅広い関係者への取材を通して、不振の原因を探った。この1冊を読めば、アパレル産業の「今」と「未来」が鮮明に見えるはずだ。