「反TPP」トランプの甘言になびく鉄鋼の街
トランピズムの源流(2) ペンシルベニア州モネッセン
4年に一度の一大イベント、米大統領選は残り3週間を切った。民主党のヒラリー・クリントン候補と共和党のドナルド・トランプ候補の戦いは9月後半まで接戦が続いていたが、討論会の直接対決以降、過去のセクハラ発言テープの流出などトランプ氏が自滅している印象が強い。だが、米国民のクリントン嫌いも根深いものがある。まだ予断は許さない。
この連載では、中西部のラストベルトの町と住民をひもときつつ、トランプ氏が可視化した「トランピズム」の断片を見ていく。2回目は古びた鉄鋼の町、ペンシルベニア州モネッセン――。
(本文敬称略)
ウェストバージニア州東部の山間部を源流に、ピッツバーグでオハイオ川に姿を変えるモノンガヒラ川――。この川の両岸には、かつて製鉄会社の製鋼所が並んでいた。だが、1980年代以降、米国の製鉄業界は日本や韓国との国際競争で打撃を受け、その多くは閉鎖されたか、リサイクル工場として細々とビジネスを続けている。
ブライアン・ヘイデンが住むペンシルベニア州モネッセンもホイーリング・ピッツバーグ・スチールの企業城下町として繁栄を極めた。だが、1986年に同社がモネッセンの製鉄所を閉鎖すると、1万2000人ほどいた人口も8000人弱まで減少した。
「今の市長はモネッセンをよくしようと頑張っている。でもね、結局は企業が来てくれるかどうかが問題なんだ。製鉄所は無理かもしれないが、何か別のビジネスが」
モネッセンの坂の上に並ぶ住宅街。空き家になってからだいぶ時間がたつのだろう。雑草に覆われている(写真:Pete Marovich)
「TPP脱退」を正式表明
ピッツバーグの大学を卒業したヘイデンは4年前、両親が住むモネッセンに戻ってきた。現在はアマゾン・ドット・コムの下請けの運送会社に勤めているが、それだけでは足りず、庭師や塗装など複数の仕事を掛け持ちしている。閉鎖したホイーリング・ピッツバーグ・スチールの製鉄所はその後、同業に買収され、2008年以降はアルセロール・ミタルの所有になっている。だが、失われた雇用を取り戻すという面では不十分だという。
「あの会社が製鉄所を買収した時はみんな興奮したよ。僕もそこで採用してもらおうと思ったけど、給料が安いというからやめた。いまだにあの会社の名前(AlcelorMittal)がうまく発音できない(笑)」
モネッセンの世帯収入(中間値)は年3万3000ドル程度と全国平均を下回る。友人の中には仕事を得るため、働き口の多いアリゾナに移住した者もいる。モネッセンの住民の8割は白人が占める。まさに、トランプを支持する白人労働者の典型だ。
トランプは6月下旬、ここモネッセンのリサイクル工場を訪れ、反TPP(環太平洋経済連携協定)をぶち上げた。大統領に就任した暁にはTPPを離脱すると正式に表明、再交渉できなければNAFTA(北米自由貿易協定)からも脱退すると語ったのだ。
それまでもTPPを「最悪のディール」と酷評するなど保護主義的な言動が目立っていたが、7月の党大会の前に、改めて支持基盤である低学歴の白人労働者層に自身の主張をアピールした。モネッセンを演説場所に選んだのは、貿易戦争に敗北し、以前の職を失った労働者の不満をあおることが目的である。
モネッセンに残るアルセロール・ミタルの製鉄所。街の灯を細々とともしている
マサチューセッツ工科大学のデービット・オーター教授など3人の経済学者は、1月に発表した論文"The China Shock"で、対中貿易で受けた影響を以下のように結論づけた。「1999年から2011年の間に、中国からの輸入拡大によって240万の雇用が失われた」。
チャイナショックの正体
世界貿易機関(WTO)加盟した2001年以降、「世界の工場」へと駆け上がった中国。世界最大の消費市場である米国には安価な工業製品が流れ込み、打撃を受けたアパレルや靴、家具、玩具、家電製品など労働集約的な産業は生産拠点の海外移管を迫られた。
自由貿易の下、お互いの国が得意な産業に特化すれば、それぞれの産業の効率性が上がり、得意な製品の貿易を通してどちらも勝者になる――というのが貿易にまつわる経済学の基本的な考え方だ。英国の経済学者、デヴィッド・リカードの「比較優位論」である。
例えば、金融・IT(情報技術)分野において米国は中国の10倍の力を持つが、労働集約型の製造分野では2倍の力しかないとしよう。いずれの分野でも米国は中国よりも「絶対優位」にあるわけで、自由貿易を突き進めれば、両方の分野で米国だけが繁栄し、中国は衰退する以外に道がないように見える。
だが、現実にはそうはならない。米国は比較的苦手(中国の2倍しかできない=比較劣位)な製造分野を中国に任せ、得意(中国の10倍もできる=比較優位)な金融・IT分野に特化することで、ずっと大きな利益をあげることができるからだ。
一方、中国は金融・IT分野でも製造業でも米国に負けているが、比較的苦手(米国の10分の1しかできない=比較劣位)な金融・IT分野を米国に任せ、比較的得意(米国の2分の1もできる=比較優位)な製造業に集中することで、保護貿易を続けるよりもずっと大きな利益を期待できる。
こうして、比較優位論の下では、得意分野への特化とお互いの製品の自由な取引で世界中の国が程度の差こそあれ幸福になると説く。
もっとも、比較優位論も万能ではない。米国が中国に苦手分野を明け渡してしまうと、その分野で働いていた人々が大量に失業する恐れが生じる。それを防ぐためには時間をかけて再教育し、新たな成長分野にリソースを移していく必要がある。
そのためには政府による教育や再就職支援、低所得者に対する勤労所得税控除など政治主導の富の再分配が欠かせないが、伝統的に自助自立の精神が強い米国では政治による再分配がそれほど機能せず、金融危機を経て格差が拡大した――。これが極めて単純化した、米国社会の混乱と不満の構図である。
実際、対中貿易の影響で失業した人々の中には成長産業に移るでもなく、失業保険や貿易調整支援などの給付金で生計を立てている人々が少なくない。うまく仕事を見つけることができたとしても、以前よりも低い賃金で働くことを余儀なくされた。こういった層がため込んでいた不満をトランプは巧みにあおっている。
正直に言えば、製造業部門で職が失われた原因は自動化による生産性の向上も大きい。また、製鉄業界でリストラが相次いだのは1980年代から90年代初頭にかけてで、中国のWTO加盟、もっと言えばNAFTAの発効前から競争力を失っている。
しかも、仮に米国がTPPに参加したところで、ほかの国々は先進国や中進国が中心で、2000年代に中国から受けたほどの影響はもはやないと見られる。それに、米国人が多様な製品を比較的安価に購入できるのは貿易のおかげであり、米国の場合、貿易赤字はファイナンスが可能だ。
このように、中西部の「ラストベルト(Rust Belt:重工業が主体だった地域)」の白人労働者の苦境はすべてが貿易のせいではない。だが、脳裏に刻み込まれた痛みはそう簡単には消えることがない。
出口のない状況の破壊者として
「米国の企業が海外に出て行くと何でも安くなる。我々は外から来るモノを何でも受け入れるが、自分達が作ったモノを外に輸出できていない。トランプにはいろいろと問題もあるが、彼が言っていることは正しいと思うし、米国に仕事を取り戻せると思う」
そうヘイデンは語る。話した印象では、ヘイデンは白人至上主義者でもなければ差別主義者でもない。ごく普通の地域を愛する男性である。実際、彼はトランプの差別的な発言を否定的に捉えているが、それ以上に今の出口のない状況を打破できる破壊者としてトランプに期待しているのだ。
10月7日にワシントンポストがすっぱ抜いたセクハラ発言テープは、トランプ支持でまとまりつつあった共和党に亀裂を与えたという意味でかなりの打撃だ。だが、現状に対する絶望が深いほど、変革を求める声は鋭さを増す。特に、民主党候補のヒラリー・クリントンが現状維持の候補とみられている以上、トランピズムは根雪のように残るに違いない。
モノンガヒラ川沿いの鉄工所跡(写真:Peto Marovich)
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