暗黒の時代、理想を求める

新渡戸稲造は1920年に国際連盟の事務次長に就任し、6年間活動しました。1920年代というのはどういう時代だったのでしょうか。一般的には、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の「戦間期」と言われます。

福富 満久(ふくとみ・みつひさ)
一橋大学大学院社会学研究科教授。中東和平、軍事介入、「Gゼロ」における国際関係学の理論や、政治哲学などを応用した国際平和の模索と国際正義に関する研究を行う。近著に『Gゼロ時代のエネルギー地政学―シェール革命と米国の新秩序構想』(岩波書店、2015)など。(写真:北山宏一)

福富:第一次大戦の反省から1920年に国際連盟が設立されました。でも、結局機能しなかった。アメリカは議会の反対を受け参加しませんでした。また、第一次大戦の責任を全てドイツに押し付けたのも問題でした。多額の賠償金を科され、ドイツ経済は疲弊しました。このことがのちのナチス台頭につながりました。

 1922年のワシントン海軍軍縮条約は日本の軍部を刺激しました。この条約は、軍艦の保有比率を定めるもの。イギリスやアメリカに比べて、日本の保有できる軍艦は少ない、不平等な条約でした。それが日本の軍部を怒らせた。

 私は、第二次世界大戦は第一次大戦の延長線上にあると思います。第二次大戦は起こるべくして起きました。

新渡戸稲造が国際連盟で活動した後、1930年代に入ると不穏な空気が漂い始めます。

福富:1931年に勃発した満州事変ですね。日本軍は満州を占領し、傀儡政権を樹立しました。その後、1933年には日本は国際連盟を脱退した。

 戦前期の日本は、現代の我々が思っているより、ずっと軍部の力が強かったのです。1894年から1945年の間に総理大臣を務めた約30人のうち、半分が軍人出身です。歴代外務大臣にも結構軍人出身者がいました。総理大臣も外務大臣も軍人、と実質的に軍部が国家を握っていたわけです。

その時代に生きることは、新渡戸稲造にとって葛藤だったのではないでしょうか。自身が理想とする「人道主義」や「人類平等主義」を大っぴらには言えないわけですから。

福富:そうだと思います。教育者として、学者として、彼には確固たる信念や理想があった。でもそれを許さない社会の空気が醸成されていたのです。

 1930年代の時点で、新渡戸は日本が大きな戦争に向かっていることに気づいていたのではないかと思います。国際経験が豊富で優れた外交センスを持っている人ですから。だから、晩年は戦争回避のために奔走します。

満州事変後、日本に対する国際的な非難が強まる中、政府の要請を受けて、アメリカに渡りましたね。各地で講演して日本の立場を説明しました。何とか衝突を避けられないか、との思いだったと言います。ただ、アメリカ側から「新渡戸は日本の立場を正当化している」と大きな反感を買いました。

福富:そうですね。その後カナダにも渡り再び講演しました。しかし事態はよくならず、1933年新渡戸はカナダで客死します。日本が国際連盟から脱退して約半年後のことです。

失意のまま亡くなられたのですね。新渡戸は1932年の上海事変を批判したことがあります。当時の日本の状況を考えればかなり勇気のいることだったと思います。しかし一方、満州事変に関しては日本の行動を否定しない発言をしました。そもそも、台湾の植民地経営に関与していた時期もあります。

福富:確かにその通りです。ただ、今の時代から見て「こうだった」と評価することは簡単です。その時代では、最善の考えをしていたのかもしれません。しかし、だからといって日本が中国や台湾などに対して行ったことを正当化してもよいとは思いません。