しかし当時の世相として、英国ファーストが強まっていた面はあると思います。世界恐慌の影響で、他国をかまっている余裕はなくなりました。それがチェンバレンの宥和政策にもつながります。ドイツが英国を攻めないのであれば、再軍備を認めてもいいじゃないかという方向に流れていく。米国が国際連盟に加盟しなかったのも同じ文脈の中での話です。「米国ファースト」だったわけですよね。

 チャーチルはこうした流れに与することはありませんでした。「○○ファーストではダメ」という考えを強く抱いていたと思います。

自由党に見切りをつけ保守党に復帰

チャーチルは保守党から下院選に出馬して1900年に初当選しました。しかし、その後、自由党に鞍替え。さらに保守党に出戻りしています。日本でも90年代に、自民党から新党に移り、再び自民党に戻ってきた議員が少なからずいました。こうした人々を彷彿させますね。

君塚:チャーチルが保守党から自由党に移ったのは、自らが正しいと信じる政策が保守党の目指すものと違ってきたからです。第1は自由貿易。保守党が導入を支持する保護関税の拡大に反対しました。

 2つ目は「人民予算」への賛成です。1909年のことでした。自由党政権は老齢年金を導入するための財源として、不動産に対する相続税の課税強化と、高額所得者を対象とする所得税率の累進強化を示しました。チャーチルはこれに賛成しています。

 

 3つ目は貴族院の権限を縮小する改革です。(1)予算に関わる法案は、下院が可決すれば、貴族院はこれを覆すことができない、(2)予算に関わらない法案も、下院が3会期連続で可決すれば、貴族院が反対しても成立する――という二つを実現する案に賛成しました。

 2つ目と3つ目は、自らが貴族でありながら、保守党の支持者である貴族たちを敵に回す判断です。保守党からは「裏切り者」とののしられました。それでも、不屈の精神の持ち主であるチャーチルは自ら信じるものを貫いたのです。

チャーチルにはリベラルな側面があったわけですね。保守党に出戻ったのはなぜだったのですか。

君塚:こちらは政局に関わる面が強くありました。第一次世界大戦後、自由党は内部分裂に陥りました。アスキス派とロイド・ジョージ派が対立し、和解に時間がかかりました。それぞれのグループがばらばらのことを言うので、有権者から信用されなくなります。そんな自由党に嫌気がさして、同党を離れる決断をしました。

 一連の選挙改革も、チャーチルに自由党を見限らせる導火線になりました。1918年、1928年と相次いで選挙法の改正があり、1918年には男子の普通選挙が実現しました。これはすなわち労働者階級への有権者拡大であり、労働党の勢力伸長につながりました。英政界は1920年代までは保守、自由、労働の3党鼎立状態でしたが、1930年代までには保守・労働両党による二大政党制に移行しました。

 チャーチルの立場では、労働者の党で共産主義にも理解を示す同党に入るわけにはいきません。したがって、保守党に戻ることにしたのです。

軍艦の燃料を石炭から石油に転換

チャーチルは子供の頃は数学が苦手だったようですが、技術の進歩を見る目は確かだったようですね。海軍の軍艦が使用する燃料を石炭から石油に切り替えました。

君塚:石油に比べて石炭は頻繁に燃料を積み込む必要があります。石炭の補給を維持するために、世界の各地に植民地を維持する必要がありました。イエメン、ペルシャ湾、シンガポールといった具合です。一方、石炭に比べると石油は補給の回数が少なくてすみます。