第2次世界大戦中、英国の必勝を信じて戦い抜いた首相、ウィンストン・チャーチル(写真:The New York Times/アフロ)
あの人が今生きていたならば、この世界を見て何を思い、どのようなヒントを与えてくれるのだろうか。かつての大混乱時代を生きた政治家や科学者、文学者など各分野の偉人たちの思想を、研究者・識者に聞く。第3回の偉人は英国の宰相、ウィンストン・チャーチル。チャーチルを長年にわたって研究してきた、関東学院大学の君塚直隆教授に聞いた。(聞き手 森 永輔)
第二次世界大戦の時に英国の舵を取ったウィンストン・チャーチルが今の日本を見たら、現状をどう認識すると思いますか。
1930年代に入ると、ドーバー海峡を挟んだ欧州大陸で新興国ドイツが台頭。第一次世界大戦(1914~18年)後に構築された、国境を初めとする秩序を力で壊していきました。
君塚:英国が当時置かれた状況と今の日本の状況が似ていると思うでしょうね。そして、強気の主戦論を展開すると思います。彼は30年代、ナチスドイツを危険視し、「災いの芽は青いうちに摘まなければならない」と毅然とした態度で主張しました。
君塚直隆(きみづか・なおたか)
関東学院大学国際文化学部教授。専門は近現代イギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。1967年東京生まれ。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。近著に『ベル・エポックの国際政治』(中央公論新社、2012年)、『チャールズ皇太子の地球環境戦略』(勁草書房、2013年)、『物語 イギリスの歴史』(上下2巻、中公新書、2015年)など。(撮影:加藤康 以下全て)
このため、彼は「war monger(戦争屋)」として批判された。「なぜ戦争を煽るのだ?」と。所属する保守党においても、社会においても、10年にわたって孤立する憂き目に遭っています。彼はこれを自ら「荒野の10年」と呼びました。当時のチャーチルの信条を理解したのは、後にチャーチル戦争内閣の外相を務めるイーデンくらいでした。
1935年に英国はドイツと英独海軍協定を結びました。チャーチルはこれに強く反対したそうですね。
君塚:はい。ドイツの海軍力が英国の3分の1を超えてはいけないという条項を柱とする協定です。
ドイツは第一次世界大戦の敗戦を受けて軍備を大幅に制限されました。海軍の艦船は1万トン以内に。潜水艦の保有は禁止。ところが英独海軍協定によって艦船を新造できるようになった。潜水艦Uボートの保有にも道が開かれました。
チャーチルは1938年9月に結ばれたミュンヘン協定にはどのような態度を取ったのでしょう。英国とフランスはドイツとの戦争を避けるべく、ヒトラーに譲歩し、チェコスロバキアの一部、ズデーテン地方のドイツ編入を認めてしまいました。チェコスロバキア政府はこの会議に招待されることもなく、その意向を完全に無視されてしまった。
君塚:もちろん、反対しています。
当時の英国は、政府も議会も国民もドイツに対する宥和的な空気に満ちていました。ミュンヘン協定に調印して英国に戻ってきた英首相チェンバレンは空港に降り立つと、協定書を持った手を高く上げ成功を誇示。マスコミは「名誉ある平和(Peace with Honour)」と書き立てたのです。
宥和主義がどのような結果を招いたかはその後の歴史が語るとおりです。1年を待たずして、ヒトラーはポーランドに侵攻。チェンバレンが騙されていたことが明らかになりました。
チャーチルが孤立してまで主戦論を曲げなかったのは、彼が軍人だったからでしょうか。チャーチルは軍人としてインドや南アフリカでの戦争に参加し、修羅場をくぐった経験を持ちます。
君塚:それもあるでしょうね。加えて、彼が反共主義者であったことと、バランス・オブ・パワーの信奉者であったことが挙げられます。
彼はナチスドイツを共産主義の派生形態と捉えていました。その著書『第二次世界大戦』の中で、「ドイツとイタリアは共産主義の宣伝にほとんど屈服した」「ファシズムはコミュニズムの影であり、その醜い子である」と記しています。ナチス党の正式名称は「国民社会主義ドイツ労働者党」です。
バランス・オブ・パワーは力の均衡を重視する考えです。英国は伝統的に、欧州大陸で覇権を成す大国が誕生するのを警戒し、そのような勢力が台頭してくるとそれに対抗できる国を支援してバランスを取る施策を取ってきました。
チャーチルもこの考えを踏襲。「ファシズムよりは共産主義がまし」と判断して、ドイツとのバランスを取るためソ連と手を結びました。本来はフランスと手を組みたかったのでしょうが、フランスも宥和派でした。
卑屈になることなく米国を参戦させる
第2次世界大戦が始まり、チャーチルは戦争内閣の首相に就任します。そして、米国を味方に引き入れるべく様々な努力をしました。この点も、今の日本の政策と似ています。大陸で台頭する新興国とのバランスを維持するため、米国のエンゲージを求める。
君塚:チャーチルが今の日本にいても、同様の政策を取るでしょうね。
なぜ、チャーチルは米国を頼ったのでしょう。
君塚:実はこの当時の英米関係は最悪の状態にありました。チェンバレンが「米国は何もしてくれない」と不満を持つ一方、米国を率いる大統領ルーズベルトは宥和政策に反対し「英国は、ドイツの動きを受け入れるだけで何もしない」と考えていました。
米国は第一次世界大戦後、もとのモンロー主義に回帰しており、欧州での出来事に介入する意思がありませんでした。自ら提唱した国際連盟に参加しなかったのは、この証の一つです。さらに戦後、「Back to normalcy(正常な状態に返れ)」を掲げたハーディングが大統領選挙に勝利しました。
モンロー主義については、初代大統領のワシントンが引退する1796年、「もう欧州のごたごたには巻き込まれない」と語った告別演説が有名ですね。米国は、第一次世界大戦に参加したこと自体がアブノーマルな出来事と認識していたのです。
加えて、当時の米国は英国の同盟国ではありませんでした。
チャーチルが対米関係を改善できたのは、次に挙げる要素が大きかったと思います。まずは構造的な問題。英国と米国の上流層はともにWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)です。
関連して、ともに英語を母国語とすることがあります。通訳なしでコミュニケーションが取れるのは非常に大きいことです。チャーチルには思い入れがあったのでしょう。彼の最晩年の著作のタイトルは『英語諸国民の歴史』です。
3つ目は価値観を共有していること。君主制と共和制の違いはあるものの、どちらも民主主義国です。チャーチルは第二次世界大戦を、「英語諸国民」など連合国が掲げる民主主義と、ヒトラーが掲げる全体主義との戦いと捉えていました。
4つ目は血縁関係。チャーチルの母親は米国で財を成した大富豪の令嬢でした。言葉と血縁については、チャーチルが今の日本にいても異なる意識を持つでしょうね。
そして5つ目は、ルーズベルトとの個人的な信頼関係です。1941年8月に大西洋上に停泊した英軍艦「プリンス・オブ・ウェールズ」上で会談した二人は信頼を醸成していきました。ルーズベルトはチェンバレンでなくチャーチルならば信頼するに足ると考えたようです。やはり「会う」という行為は外交を行なう上で非常に重要ですね。
チャーチルはルーズベルトに何通もの手紙を送っています。これらを読むと、最終的な勝利を信じており、哀願するような表現は一切出てきません。そうした強気の姿勢も、ルーズベルトから信頼を得ることにつながったのでしょうか。「最新型航空機を数百機借用したい」「貴国から鋼鉄を買うことを必要としています」とは書いていますが、決して「くれ」とは書いていません。
君塚:それもあるでしょうね。卑屈な態度よりも、こうしたぶれない堂々とした態度の方が、助ける側を安心させる面があるかもしれません。チャーチルは「もし英国がドイツに支配されたら、我々はアイルランドで戦う。アイルランドにも来られたらカナダで戦う」と語っていました。
チャーチルは強気の一方でユーモアも忘れませんでした。議会での演説の中で「我々はドイツの侵攻を待ち望んでいる。ドーバー海峡を泳ぐ魚も一緒だ」といった発言をしています。
チャーチルとルーズベルトはどちらも軍人で、第一次世界大戦をともに戦った経験があります。これも信頼を深めた背景にあったでしょう。チャーチルは当時、英国の海軍大臣。ルーズベルトは米国の海軍次官補でした。チャーチルがルーズベルトに宛てた手紙の結びには「Former Naval person(かつての海軍軍人)」としたためていました。
またどちらも上流階級の出身であったことも大きかったでしょうね。チャーチルは英国の貴族で“お殿様”です。彼が生まれたブレニム宮殿は、王宮と英国教会大主教の公邸を除き、英国で唯一「宮殿」と冠した建物です。彼の先祖がスペイン継承戦争で戦功を上げ、アン女王から下賜されたものです。その面積は東京都台東区とほぼ同じ。一方のルーズベルトも大富豪の御曹司でした。
「英国ファースト」のファシストを批判
「英国と米国は特別な関係」と見るチャーチルが、「アメリカ・ファースト」を標榜するドナルド・トランプ米大統領の言動をみたらどう思うでしょう。
君塚:厳しく評価すると思います。
当時の英国にオズワルド・モズリーという、「英国ファースト」を主張するファシスト運動のリーダーがいました。代々伝わる准男爵の家に生まれ、チャーチルの後輩で陸軍士官学校を卒業したエリートです。チャーチルはモズリーを「自分の国さえよければよいという姿勢はダメだ」と批判しました。
チャーチルは国際感覚に優れていたのですね。
君塚:はい。彼は帝国主義の時代に七つの海を支配した英国の貴族の家に生まれ、インドや南アフリカをはじめとする植民地を支配するのは当たり前と考えていました。現代の我々は帝国主義=悪と捉えます。しかし、それゆえに国際感覚が磨かれた面がありますね。帝国主義にも功罪の両面があったのです。
バランス・オブ・パワーの考え方を身につけたのも同じ流れの中の話ですね。
君塚:おっしゃる通りです。軍人として世界を回る中で「自分の島さえ無事ならよい」という考えは通用しないことを理解したのだと思います。
そういう国際感覚は当時の英国人はみなが身につけていたのでしょうか。それともチャーチルに固有のものなのでしょうか。
君塚:一般の人の間にもこの感覚はあったと思います。ビクトリア朝時代から、身内が移民としてカナダに行くとか、インドに戦争に行くとかする家がたくさんありましたから。英国は国として、国際感覚がしみついているところがあります。
しかし当時の世相として、英国ファーストが強まっていた面はあると思います。世界恐慌の影響で、他国をかまっている余裕はなくなりました。それがチェンバレンの宥和政策にもつながります。ドイツが英国を攻めないのであれば、再軍備を認めてもいいじゃないかという方向に流れていく。米国が国際連盟に加盟しなかったのも同じ文脈の中での話です。「米国ファースト」だったわけですよね。
チャーチルはこうした流れに与することはありませんでした。「○○ファーストではダメ」という考えを強く抱いていたと思います。
自由党に見切りをつけ保守党に復帰
チャーチルは保守党から下院選に出馬して1900年に初当選しました。しかし、その後、自由党に鞍替え。さらに保守党に出戻りしています。日本でも90年代に、自民党から新党に移り、再び自民党に戻ってきた議員が少なからずいました。こうした人々を彷彿させますね。
君塚:チャーチルが保守党から自由党に移ったのは、自らが正しいと信じる政策が保守党の目指すものと違ってきたからです。第1は自由貿易。保守党が導入を支持する保護関税の拡大に反対しました。
2つ目は「人民予算」への賛成です。1909年のことでした。自由党政権は老齢年金を導入するための財源として、不動産に対する相続税の課税強化と、高額所得者を対象とする所得税率の累進強化を示しました。チャーチルはこれに賛成しています。
3つ目は貴族院の権限を縮小する改革です。(1)予算に関わる法案は、下院が可決すれば、貴族院はこれを覆すことができない、(2)予算に関わらない法案も、下院が3会期連続で可決すれば、貴族院が反対しても成立する――という二つを実現する案に賛成しました。
2つ目と3つ目は、自らが貴族でありながら、保守党の支持者である貴族たちを敵に回す判断です。保守党からは「裏切り者」とののしられました。それでも、不屈の精神の持ち主であるチャーチルは自ら信じるものを貫いたのです。
チャーチルにはリベラルな側面があったわけですね。保守党に出戻ったのはなぜだったのですか。
君塚:こちらは政局に関わる面が強くありました。第一次世界大戦後、自由党は内部分裂に陥りました。アスキス派とロイド・ジョージ派が対立し、和解に時間がかかりました。それぞれのグループがばらばらのことを言うので、有権者から信用されなくなります。そんな自由党に嫌気がさして、同党を離れる決断をしました。
一連の選挙改革も、チャーチルに自由党を見限らせる導火線になりました。1918年、1928年と相次いで選挙法の改正があり、1918年には男子の普通選挙が実現しました。これはすなわち労働者階級への有権者拡大であり、労働党の勢力伸長につながりました。英政界は1920年代までは保守、自由、労働の3党鼎立状態でしたが、1930年代までには保守・労働両党による二大政党制に移行しました。
チャーチルの立場では、労働者の党で共産主義にも理解を示す同党に入るわけにはいきません。したがって、保守党に戻ることにしたのです。
軍艦の燃料を石炭から石油に転換
チャーチルは子供の頃は数学が苦手だったようですが、技術の進歩を見る目は確かだったようですね。海軍の軍艦が使用する燃料を石炭から石油に切り替えました。
君塚:石油に比べて石炭は頻繁に燃料を積み込む必要があります。石炭の補給を維持するために、世界の各地に植民地を維持する必要がありました。イエメン、ペルシャ湾、シンガポールといった具合です。一方、石炭に比べると石油は補給の回数が少なくてすみます。
1907~8年にイランから石油が出たことも、チャーチルの決断を後押ししたと思います。当時の英国は、英露協商を通じてイランを事実上ロシアと分け合っていました。
チャーチルが目を付けたのは石油だけではありません。戦車、戦闘機、レーダーも同様です。戦車は、第一次世界大戦を通じて塹壕が強化されたため、これへの対抗措置として重視しました。戦闘機の増産も支持しました。これは対独戦争が始まった後、英国領空の制空権を維持するのに活躍しました。
チャーチルは新しいモノ好きなので、今の時代にいたなら、ロケットや人工衛星などの宇宙技術、石油に代わる次世代エネルギー、サイバー、AI(人工知能)などにも興味を向けたでしょうね。
ロシアのクリミア侵攻は許さない
最後にチャーチルのロシア観をお伺いします。今のロシアを見たらどう思うことでしょう。当時のソ連はポーランドに侵攻、現在のロシアはクリミアに侵攻。現状を力で変える動きが目に付きます。
君塚:チャーチルは地政学的な脅威に敏感でした。クリミアは、クリミア戦争*があったことから明らかなように重要な地域です。2014年のセバストポリ編入を目にしたら、きっと、黙ってはいなかったでしょう。
*:帝政ロシアが1853年、ギリシャ正教徒の支援を理由にオスマン帝国に侵攻。翌54年に英国はロシアの南下をくいとめるべくオスマン帝国に味方して参戦した
かつてのグレートゲーム*が再来する第一歩ととらえたかもしれないですね。
君塚:きっと、そうだろうと思いますね。
*:南下政策を進める帝政ロシアとこれを阻止しようとする英国とが、19世紀後半にユーラシア大陸全体を舞台に演じた勢力争い。英国は、クリミア戦争ではロシアと戦うオスマン帝国を支援。第二次アフガニスタン戦争ではロシアに支援されたアフガニスタンと対決。日露戦争ではロシアと戦う日本を支援した。
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