上場ウォンテッドリー、32歳社長の異色キャリア
外資金融、漫画家、FB日本法人…起業への“九十九折り”
国内初の本格的ビジネスSNSで急成長するウォンテッドリー。9月14日、東証マザーズへ上場する。同社を率いる仲暁子氏は、1984年生まれの32歳という若さ。「ゼロイチ(何もない状態から新しいものを生み出すこと)」に挑み続けてきたという仲氏が、起業に至る“九十九折り”の異色のキャリアを語った。
(まとめ=宮本恵理子/写真=鈴木愛子)
仲 暁子(なか あきこ)氏
1984年生まれ。千葉県出身。高校でニュージーランドに留学し、大学は京都大学経済学部に進学。在学中に起業を経験し、卒業後、外資系投資銀行のゴールドマン・サックス証券に入社。2年ほどで退職し、漫画家を目指した後、フェイスブック日本法人の立ち上げに参画。半年後の2010年に独立し、現ウォンテッドリーを創業。
物心ついた時から、「ゼロイチ(何もない状態から新しいものを生み出すこと)」に夢中でした。両親は大学で働く研究者で、家の中ではゲームは禁止。テレビも1週間に1度しか観ることを許されず、代わりに推奨されていたのが「モノ作り」でした。
はさみ、のり、色鉛筆、クレヨン、画用紙、段ボールといった創作のための道具は惜しみなく与えられ、壁に絵を描いてもOK。私は炊飯器にも絵を描いていましたが、一切怒られませんでした。おかげで絵はとても好きになり、小さい頃の夢は「漫画家」でした。
両親は子供にむやみにお小遣いを与えない主義でもあったので、欲しいものは、人形でもオセロでも自分で作りました。「早く独り立ちしたい」という自立心が早くから芽生えていたのは、そうした環境によるものだったと思います。
当初は「自立する手段は何でもいい」と考え、高校に入ると時給制のアルバイトを経験したのですが、すぐに違和感を抱きました。時給とは、費やした時間に対してお金が支払われるということだから、どんな仕事をしたかより、経過時間にばかり意識が向いてしまいがち。「早く仕事が終わらないかな」と思いながら1日を過ごすのは、突き詰めると「早く死にたい」と思うのと同義ではないかと。
"人生の時間をムダにするような働き方" ではなくて、もっとオーナーシップややりがいを感じられることに時間を費やしたい。そんなことを考えるうちに、起業にも興味を抱くように。京都大学に進んでからは、思いついたことに次々とチャレンジしていきました。
京大初のミスコンを企画 抗議受け直前に中止
例えば、大学に入って最初の学園祭では、京大で初めてミスコンを企画しました。リハーサルまでやりましたが、直前で反対派の抗議を受けて開催には至らず。3日間寝込むほど落ち込みましたが、復活し、その後も友達と小さな会社を作って、京大生向けのフリーマガジンを始めるなど、半年に1つといったペースで新事業を立ち上げました。
立ち上げが得意な半面、育てるのは苦手で、悪くいうとやりっぱなしみたいな感じでもあったのですが、世の中、立ち上げる人の方が希少価値が高いということが分かってきたのもその頃です。
自分が組織でプレーするのが苦手ということも分かったので、将来はフリーランスで食べていこう、なんて考えたりもしましたが、大学4年生になると、周囲の人と同じように就職活動を始めました。就活にはゲームのような面があるので、参加してみたくなったというのが正直なところ。結果的に〝就活偏差値〟が高い会社ばかりを狙ってしまっていました。
「必死に働いて買ったバッグなのに、うれしくない」
そして入社したのが、ゴールドマン・サックス証券。不純な動機で始めた就職活動ではありましたが、この会社に入れて本当によかった。優秀な方ばかりでしたし、アウトプットのハードルが高い、非常に厳しい会社なので、すごく鍛えられました。
ただ、在籍したのは2年ほど。担当していたのは海外機関投資家向け営業で、アナリストがまとめたリポートを基に、日本株を海外のファンドマネジャーたちに売り込む仕事でした。何百億、何千億円といった巨額マネーが動く仕事ではありましたが、学生の頃に味わったような仕事の面白みは感じられませんでした。裁量の範囲が狭く、当然ではありますが、新人なので自分自身で大きな意思決定もできず、人との差別化もしにくい。「ゼロイチ」が大好きな私が夢中になれる仕事とは異なりました。気持ちがモヤモヤしていたところに起きたリーマンショック。会社の風景が一変して、辞める覚悟ができました。
一度手に入れた大企業の席を手放すことに不安がなかったというと嘘になります。毎月振り込まれる給料がなくなって、やっていけるのだろうかと怖かった。でも、考えてみれば高い給料が私に必要かというと、そうではありませんでした。
実は私は学生時代から「欲しいものリスト」を作成していて、ゴールドマン・サックス証券に入社後、40万円のブランドバック、50万円の時計、液晶大型テレビと、リストアップしたものをみんな買ってしまっていたのです。なのに心は満たされず、逆にむなしさを感じていました。ほしいものはお金ではない。では、私が心からやりたいことって、何だっけ…。
出した答えは、子供の頃の夢だった「漫画家」でした。「漫画家で成功するのは一握りで、打率は低いかもしれない。ただ、当たれば大きいし、誰よりも努力できる自信はある」。この時の私は24歳。まだ若く、失うものはありませんでした。
創作に打ち込むためには、気軽に飲み会に誘われるような場所にいてはいけないと、当時、北海道大学に勤めていた母を頼って札幌へ。約8カ月間、ひたすら部屋にこもり、受験勉強並みのストイックさで漫画を描き、いくつもの賞に応募しました。でも、ダメでした。
仲氏が学生時代に描いたSF作品。「漫画の世界では、描き手が主張したいことではなく、読み手が読みたいもの、見たいものを描いた作品が支持されます。それはネットサービスも同じだと感じています」
挫折感を覚えながらも冷静に原因を分析すると、〝需給ギャップ〟に思い当たりました。漫画大国の日本では、「読みたい人」の数に対して「描きたい人」が多すぎる。自分の作品を含め、日本ではデビューできない作品でも、海外ではビジネスになるのではないかと、立ち上げたのが、海外の漫画ファンに向けて作品を発表する「マガジン」という英語サイトです。
ただし、ネットは素人だったため、今思うとビジネスモデルとしては穴だらけ。海外で普及が進んでいたフェイスブック上で広告を出したりと努力はしたのですが、収益化には程遠い状況でした。
フェイスブック日本法人の立ち上げに参画
情報収集のためにエントリーした札幌のIT関係のイベント会場で、見慣れた「F」のロゴの服を着ている人に話しかけたら、日本での立ち上げ準備中だったフェイスブックジャパンの初代代表(児玉太郎さん)。外資系出身で英語が話せたことから勧誘を受け、2010年に同社に入社しました。
オフィスはマンションの1室で、メンバーは代表・副代表の日本人2人と、米国から来た3人のエンジニアの5人のみ。私はそこに雑用係として参加し、お茶出しから、ガラケー向けのユーザーインターフェースの再設計といった大きなことまで関わり、ネットビジネスのイロハを学ばせてもらいました。
何より収穫だったのは、急成長中の組織のカルチャーを目の当たりにできたこと。フェイスブックはエンジニアが中心の会社で、新しいアイデアが出たらすぐにサービスに反映させて世に問う意思決定の速さに衝撃を受けました。
「学んだことを生かして、自分でも何かやりたい」。〝立ち上げ屋〟の血が騒ぎ始めました。ネットの世界では、7~10年に1回の頻度で大きな波が来て、何もかもがリセットされると言われています。当時はスマートフォンやSNSが普及する直前で、「巨大な波がもうすぐ来る」と言われていた。「やるなら今しかない!」と、フェイスブックを半年で辞め、実名制のQ&Aサイトを立ち上げたのが、当社の出発点です。
当初は、どんな分野の質問でもできるサービスを想定していましたが、「何を聞けばいいか分からない」という声が上がり、本や飲食店など、分野を狭めていく形で、最終的に「人に関する質問」に特化することに。それがさらに進化して、人を探している組織と仕事を探している個人をマッチングするウォンテッドリーを2012年2月、正式にリリースしました。
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