三菱重工業の改革で重視したのは、自前主義からの脱却だ。2000年以降、切り出した事業は30以上にのぼり、自立を促し、他社との連携にも積極的に取り組んできた。宮永俊一社長の右腕とされ、様々な製品を抱えていた機械設備事業部門の改革で旗振り役を務めた木村和明副社長にその狙いを聞いた。
※日経ビジネスの8月27日号では三菱重工業が取り組んだ経営改革の特集記事を掲載しています。

三菱重工とはどんな特徴を持つ会社だと思いますか。

木村:基本的には技術の会社です。長年にわたり、重工業に携わり、そこで養われた製造力や、先端的な技法に取り組んできた技術力は強みです。ですが、いまはそれが逆に弱みになっているところもあると思います。

木村和明(きむら・かずあき)氏
1949年生まれ。73年3月、名古屋大学工学部卒業後、三菱重工業入社。化学プラント畑を歩んだ後、14年4月に常務執行役員、同年6月に代表取締役常務執行役員。機械設備システムドメインのドメイン長として事業整理を担当。17年4月より現職。

弱みとは具体的にどういった部分でしょうか。

木村:ものづくりに固執しているところですね。造船のような重工業は労働集約的な産業です。当然、労働力を安く提供できる国に主戦場は移ります。歴史を振り返ってみても、イギリスはかつて列車を作っていましたが、いまはほとんど作っていませんよね。そういったグローバルな流れと、市場の変化の中で、三菱重工が自前主義のものづくりにこだわっていました。しかし、労働集約型の産業は、人件費がより安い国に移っていきます。我々はそうした産業革命からの変化の流れに直面しました。今までやってきたことの延長戦では生きていけなくなったんです。でも、それもある意味、歴史を振り返ると当然の流れですよね。

そうした変化への対応に遅れた部分はありますか。

木村:遅れた部分はありますね。でも、それは三菱重工だけではなく、日本の重工業がなかなか脱しきれていなかったと思います。

変化に対応するために、三菱重工は20年にわたり、経営改革に取り組んできました。木村副社長は一連の改革で三菱重工のどういった部分が変化したと思いますか。

木村:1964年に今の形の三菱重工が誕生し、地域に根付いた形で経営を続けていました。長崎造船所や神戸造船所など事業所同士で競争していた。国内の需要が多い時代はそうした仕組みでも、成長を続けられましたが、社会が変化し、グローバル競争への対応が求められるようになると、限界が見えてきた。

 事業所は複数の事業を持っています。でも、事業の決定権や責任の所在は不明確でした。事業所のトップの視点で考えると、ある事業の業績が悪くても、ほかの事業で帳尻を合わせるという経営になってしまいます。これでは世界のダイナミックな動きにもついていけません。事業のやり方を変えるために、事業本部制を導入し、その次にドメイン制を導入しました。

事業所制という仕組みでは、やはり海外で戦うのが難しい。戦える体制に変わるために、組織のあり方を変えてきたんですね。

木村:そうですね。国内で争っているときは、競合も同じ体質でした。でも、海外で勝負をしようとすると、違った体質の企業との戦いになります。競争相手が変わる以上、当社も変わらなければなりません。