三菱重工業が経営改革を進める上で、避けて通れない「本丸」がある。同社発祥の地の長崎造船所(長崎市)が中核となっていた造船部門。戦艦「武蔵」を建造した誇り高き長崎も、大型客船の建造遅延でグループ内での発言権は低下。今年1月の部門再編で設立した新会社の名前からは「長崎」の文字すらない。その新体制が描く事業生き残りの航海図とは。
※日経ビジネス8月27日号では三菱重工業が取り組んだ経営改革の特集記事を掲載しています。
2年ぶりに訪れた長崎造船所の香焼工場(長崎市)は相変わらず活況だった。所せましと並ぶ鉄板や配管。あちこちで溶接の火花が飛び、作業者は慌ただしく働いていた。2年前と異なるのは、建造中の船だ。2年前には累計2540億円の特別損失を招いた豪華客船アイーダ・クルーズの2番船が鎮座していたが、今はLNG(液化天然ガス)運搬船「サヤリンゴ」の建造が進む。
変化はドックに置かれている船だけではない。香焼工場の建屋の壁には今年1月ごろから、こんな標語が掲げられている。「お客様の事業の成功に最大限貢献致します」
この言葉は元々、新交通システムや印刷機などを手掛ける三原製作所(広島県三原市)が使用していたもの。「以前、掲げられていた言葉は工場の兵隊向けに頑張れと言っていた。いまは顧客の立場に変化した」と長崎造船所出身の椎葉邦男・三菱重工海洋鉄構(長崎市)社長は話す。
三菱重工の造船事業は今年1月に船の建造を中心とする三菱造船(横浜市)と、船の主要部材である船体ブロックを製造・販売する三菱重工海洋鉄構の2社に再編された。再編をしなければならなかった背景は、8月27日号の特集記事に書いた通りだが、中でもアイーダの失敗は大きな影響を与えた。
長崎流が招いた誤算
巨額損失を招いたアイーダ。その失敗の要因は「受注段階にあった」と指摘する声は多い。ある三菱重工幹部は「徐々に建造する客船のサイズを大きくするべきだった。いきなりあんな大きな客船を作ろうにも、経験やノウハウもないし、一緒にやれる仲間も育っていなかった」と、造船部門の見通しの甘さを指摘する。
さらに造船事業のある幹部は、長崎流の建造方法に固執したことが要因の1つだと指摘する。「商船の考え方で船の骨格を造る船殻工程に重きを置き、内装工程を簡単に見ていたのでは」。たとえば商船は、内装工程が少ないため、建造工程の大部分は船殻が中心となる。一方で、客船やフェリーは、内装工程の比重が大きいため、内装工程のコントロールが船の納期に大きな影響を及ぼす。
実は三菱重工にはフェリーの建造を得意とする造船所がある。下関造船所(山口県下関市)だ。ここでは、建造する面積から内装工程にかかる日数を計算。その日数をもとに、納期から逆算して、船殻に作業を早めるよう指示を出すなどして、内装に十分時間をかけられるようにしている。もし、そうしたノウハウを持つ下関と長崎が連携できていれば、アイーダの悲劇は起こらなかったかもしれない。
しかし、再編によって、造船事業は長崎や下関といった事業所の壁がなくなり、連携がとりやすい体制に生まれ変わった。何よりも発祥の地、長崎が「格上」で下関が「格下」という序列もなくなった。三菱造船の竹田祐幸執行役員は「以前なら下関が長崎に助けてもらうことはあっても、逆はなかった」と振り返るが、今は違う。三菱造船の宮崎正生副社長は「(下関からも)文句を言わず、うまくいっているところから学ぶ」と話す。
町工場の感覚を生かす
アイーダの教訓から、船の建造における工程管理の重要性を理解した長崎ではマネジメント能力を持つ人材の育成にも力を入れる。客船だけでなく、商船で今後顧客からの個別要求に応えて建造工程が複雑化するケースを想定。建造中のLNG船で試験運用を始めた。宮崎氏は「何かトラブルが起きても、深刻化する前に解決できるような体制になった」と評価する。
中長期的には長崎と下関の人材交流も進める。下関での経験が長い竹田氏は「下関は自分たちのことを町工場と思っており、常に潰れる危機を感じてきた。そのため、若いうちからコストや工程に対する管理能力は厳しく叩き込まれている。そうした感覚が長崎と同じになるよう、やっていきたい」と意気込む。
意識改革やコスト管理で下関流を学ぶ長崎。今後は両造船所の知見を生かしあう場面も出てきそうだ。
狙うのは大型フェリーの受注だ。ドックの大きさに限りがある下関では長さが200メートルまでの船しか建造できないが、長崎の立神地区にある本工場はより大きな船を建造できる大型ドックを備えている。長崎からすれば、客船と構造が近い大型フェリーを受注することで、アイーダの反省を生かすことができる。宮崎氏も「長崎でフェリーの建造ができるよう、準備は既に始めている。大型フェリーの受注を目指したい」と話す。
日本の造船業界は1970年代のオイルショック以降、長い間需要の低迷に苦しんできた。三菱重工も例外ではなかったが、同社にとっての造船は祖業として特別な存在。そうした名門意識が改革の壁になっていた面が否めない。
しかし、分社化によって、造船事業も三菱重工グループに数多ある内の1つの事業会社という位置づけになった。ぬるま湯体質を改めなければ、容赦なく他社と統合させられる可能性もある。「稼がないと造船は続けられない」(宮崎氏)。三菱造船が分社化という環境変化をバネに、再び輝くことができるか。長崎と下関の二人三脚で、まずは大型フェリーを受注し、造船事業の成長に向けた新たな航海図を描くしかない。
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