7月中旬の三菱自動車本社(東京・港区)の会議室。その男は勢いよく部屋に入ってくるや、「前の会議が押しちゃって……。時間はちゃんと取りますから」と申し訳なさそうな表情を浮かべた。三菱自動車の益子修CEO(最高経営責任者)。日経ビジネスの独占インタビューに応じ、これまで封印してきた「あの時」を赤裸々に語った。

 ※日経ビジネス8月7・14日合併号では「挫折力 実録8社の復活劇」と題した特集を掲載しています。併せてお読みください。

日経ビジネスの取材に応じた三菱自動車の益子修CEO(写真=的野 弘路、以下同)
日経ビジネスの取材に応じた三菱自動車の益子修CEO(写真=的野 弘路、以下同)

燃費不正問題が発覚し、2016年4月20日に記者会見を開きました。あの時はどのような心境だったのでしょうか。

益子CEO(以下、益子):一言で言えば、「信じられない」……でしょうか。

問題を起こした原因はどこにあったと分析していますか。

益子:今回の問題を「単発の出来事」とは捉えていません。三菱自動車(MMC)の(50年近くに上る)歴史の中で起きた問題だと思っています。

 物事には必ず原因がありますが、原因には、きっかけとなる原因と根本的な原因の2つがあります。今回の燃費問題が発覚するきっかけとなったのは、(軽自動車を一緒に開発していた)日産自動車が次期車の開発をしようとしたときに「(現行車の燃費で)十分な数値が出ない。カタログ値が出てこない。おかしい」と指摘してきたことでした。その後、第三者委員会や社内の調査で、(既定外の測定方法の使用や数値の改ざんが始まったのは)20数年前だったことが分かりました。(問題を解決するには)この根本原因について「なぜそんなことをしたのか」を理解する必要があります。


ここ10年は攻めより守りだった

益子:2004年、三菱自動車は別の危機に直面していました。ダイムラークライスラー(当時)から資本提携を解消され、財政面で危機的な状況に陥ったのです。この時、私は社長ではありませんでしたが、確かに問題のきっかけはダイムラークライスラーが手を引いたことにありました。でも、根本的な原因は違います。「過去の身の丈を越えた拡大戦略」です。

 2005年に私が社長になり、過去をさかのぼって業績を見ましたが、MMCはそれまでもあまり儲かっていませんでした。なのにオーストラリアと米国、オランダにまで工場を持っていた。

 当時、オーストラリアに工場を持っていたのは、米ゼネラル・モーターズ(GM)、米フォード・モーター、トヨタ自動車、日産に加えてMMCでした。最初の4社なら理解できますが、そこになぜMMCがいるのか。クライスラーが経営危機に陥ったときに引き受けたようなんですが、私はオーストラリアに生産拠点を持つ意味はなかったと思っています。結局、日産、その次にうち(2008年)、その後もGMやトヨタがオーストラリアから撤退していきました。

 米国の工場もクライスラーから引き受けたものです。我々の規模の会社にとっては非常に大きな生産能力を持った工場でしたし、クライスラーも儲かっていれば工場を手放したりしません。そもそも米国に工場を持つ意味があったのか。経営判断にミスはなかったのか。こうした根本原因をきちんと分析しないと、どんな問題も解決できません。

 MMCの業績は私が社長になってぐっと伸びました。(身の丈を超えた拡大戦略という)根本原因を解決してきたからです。過去の負の遺産を整理し、赤字垂れ流しを「止血」することで、自動的にその分が利益に変わっていきました。攻めよりも守り。新しいことにあまりチャレンジできなかったけれど、会社をリーンにしたのがこの10年間、私がやってきたことでした。

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