スタートしてから時速550kmを出すまで、いくつかの技術的なハードルがあったんですか。

寺井:やっぱり初めてのシステムですし、宮崎実験線とがらりと変えたシステムにしたので、最初は初期故障とかありましたね。でも、実験を止めて全部やり変えなきゃいけないような問題はなかった。初めからうまくいったと。もちろん細かいトラブルはありましたけど、本質に関わるようなものはありませんでした。

そうしますと、ドイツはリニアを早々に断念して、御社は宮崎実験線ができてから早い段階でメドがたった。何で、それほど日本とドイツで開発に違いが出てしまったんでしょうか。

寺井:たぶん、東海道新幹線のときは1957年頃に東京と大阪の間を3時間で結びましょうという構想をぶち上げたんです。それに必要な技術を国鉄の中で全部集めて、組み立てたんですね。

 自分が使おうとしているものを自分で開発した。当時、国鉄が自分で東京と大阪の間を新幹線を造って、時速200kmで走らせて、3時間で結ぼうという明確な目標を持っていた。それに必要なものを集めると。

 超電導のときも、明確な目標があって、国鉄時代からスタートしました。そのときすでに東京~大阪を1時間、時速500kmと。これがJR東海に引き継がれたんですが、その後も全く同じ目標でした。しかも自分が使うつもりで、必要な技術を集めた。これが大きかったですね。

 それともう1つ、やっぱり日本の工業力が高まったということだと思うんですね。ドイツでしたらシーメンスが中心になって造る。この会社は鉄道の車両を造ったり、重電を造っている。東芝や三菱電機と同じ立場なんですが、鉄道の運営会社ではありません。ですから、すべての技術を集めることができなかった。工業力という点で、日本に一日の長があったのかなと。

飛行機に近いが、やはり鉄道です

参加した日本企業の中でも三菱重工業が飛行機の機体技術を持ち込んでいる。そんなリニアの他の交通システムと比べての優位点は。

寺井:一番大きな特徴は、地表近くを500kmで走る運行システムというところです。飛行機は空気の薄いところを時速1000kmぐらいで飛んでいるんですけれども、リニアは地表の空気が濃いところを、時速500kmで走る。

 飛行機に近いところもありますが、もともとは鉄道です。DNAといいますか、鉄道そのものを発展させたものでありつつ、一方、地表を飛行機並みのスピードで走る。昔のプロペラ機並みのスピードです。初期段階は、(飛行機のように車体断面が)まん丸ですね。

そこを、鉄道列車のように角がある形に徐々に変えていった。

寺井:そうですね。鉄道に近くなってきて居住性がいいところもあるし。最初、我々がやったときに悩んだのは、飛行機と違ってトンネルを通る。この出入りで大きな気圧の変動があるんです。そのときに耐えられる構造というのはやっぱり円形だろうと。で、最初この形を踏襲しました。何度か試験をやっているうちに、そこまでまん丸くしなくても角形でいけると。それは技術開発の成果なんですけど、今は飛行機よりも新幹線、鉄道車両に近い形になった。

最初に山梨でやってた頃は、室内の騒音がすごくて、隣の人と話せなかったと聞きます。今では新幹線と同じぐらいの感覚で話ができる。この技術はどう実現したんでしょうか。

寺井:車内の騒音は、車両の工夫が一番大きいんですね。最初に18kmで山梨実験線がスタートしたときから、どういうふうに音が入ってくるとか、音がどこから出ているか、経路をいろいろと探し出しました。車体の形状で出っ張っているところがあると、どうしても音が出たり、それが車内に入ってくる。それがなるべく起きないように改良したり、入ってくる音を緩和するために、車内の内装材に音を吸収させるとか、いろいろな仕組みを取り入れました。

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