官僚だけではない。浅利の批判の矛先は、演劇文化の凋落を座して待つかのようにおとなしい、物言わぬ同業者の演劇人たちへも向けられる。

 日本の演劇会には、「四季vs四季以外」という強烈な図式が残っている。劇団四季の創立当時から続く、長い対立をまだ引きずっているのだ。

 創立から2年後、慶応大学系の三田文学会が発行する文芸誌「三田文学」に、浅利は「演劇の回復のために」という小論を書いた。

 「既存劇壇の先輩のかたがた。僕らと貴方がたの間には、或る決定的な断絶があります」という書き出しで始まるこの論文は、西洋的な理念にのみ固執して新劇を論ずる先輩演劇人への痛烈な批判で満ちている。

 当時の新劇は時代を流れる新しい思想と密着していた。西洋文化の流入から生まれた新劇は、インテリたちによる啓蒙といった独善性に満ち、ロシア革命とその後の旧ソ連誕生を支えたマルキシズムやコミュニズムの理念、戦後はこれに反米思想が交じり、左翼思想に傾倒していった。演劇と政治は不可分であり、左翼的な観念論の下で演目も決まる時代だった。

 この流れは、日本の劇団に大きな影響を与えた。「日本の劇団はソ連崩壊後に進むべき方向、理念を見失った。芝居から楽しさがなくなり、基盤がすごく痩せてしまった」と浅利は言う。

 しかし、一方で、浅利は“新劇”という言葉に込められた本来の理想に共鳴し、その理念を大切に持ち続けている。92年、新劇団協議会は、その名前が古いからと「新劇」の冠を外して、「日本劇団協議会」という名前に改称する決定をした。浅利はこれに反対し、劇団四季は劇協から脱退した。

 「新劇の役割はまだ終わっていない。新劇の本当の意義は、演劇を市民に浸透させる運動だ」。新劇のメッカを立ち上げた父の遺伝子を持つ、浅利の健全な言い分だろう。

 浅利が、かつて全国への地方巡業を思い立ったのは、ある地方放送局の首脳から、「東京は文化を独占して野積みにしている。日本に責任を持つなら文化という荷を背負って町々を行脚しなきゃダメだ」と批判されたからだという。当時、東京・日比谷にある日生劇場の経営に参画しながら、「日本全国の演劇を睥睨へいげいしているつもりになっていた」と言う浅利にとって、その言葉は「大衆の中に入れ」という、新劇本来の理想を思わせるものだったに違いない。

地方を拓くミュージカル戦略

 「大道具、小道具担いで、劇団挙げての地方巡業に打って出た」。そんな言葉で浅利は劇団四季のこれまでの営業努力を表現する。苦労の連続だった。「最初はみんな大歓迎したが、2年もすると居留守を使うようになった」。

 そこで東京からもう一度風を起こし、地方へと広げていこうと考えて生まれたのが、「キャッツ」のロングラン公演だった。

 米ブロードウエーの人気ミュージカルを東京で上演し、話題を盛り上げ、飢餓感をあおった後で、地方公演へと打って出る。そして、演劇に親しむ人を増やしていく戦略だ。「キャッツ」はこれまで全国6大都市を巡り、総観客動員数は初演から今年1月までで約460万人を達成した。

 その後も「オペラ座の怪人」「美女と野獣」「ライオンキング」など数々の人気ミュージカルの全国公演で観客層を広げた。今では、東京のほか大阪、名古屋、福岡といった大都市圏に常設劇場を構えるほか、全国で年間の延べ310都市で公演。2000年の年間観客動員数は220万人に達し、「ハムレット」など、四季にとって本流の演目にもやってくるようになった。