芝居者の父に教えられたこと

 日本には、自分を追いかけ、追い越すような勢いを持つ若い演劇人がいない。これが浅利の最大の不満だ。

 「今の若い演劇人はだらしない。浅利慶太の悪口を言いながら、本気であいつを倒してやろうと立ち向かってくるやつがいない。東京のマスコミに褒められてそれで満足している輩があまりにも多い。いい芝居を作って、全国を回って、地に足をつけた勝負をしたらどうか。テレビなんかやってないで、ちゃんと芝居をやれと言いたい」

 浅利の怒りを通して見えてくるのは、現在の演劇界、ひいてはこの国の文化・芸術の在り方に対する深く重苦しい憂慮の念だ。

 弱冠20歳で劇団四季を旗揚げしてからまもなく半世紀。この間、日本の躍進と歩調を合わせるかのように、浅利もまた、劇団の経営を安定させようとひた走ってきた。会長就任で経営の重圧や煩雑さから解放された今、浅利は、演劇に向き合う自分の原点に立ち返り、「逃げずに自分の信念を貫く」ことの意味を問い直そうとしている。

 ハムレットのパンフレットに載せた文章は、演劇人の教育の在り方、それを評価するマスコミの姿勢を問うものだったが、実際の狙いはそのような技巧的問題の解決や改革ではない。姿勢や生き様、信念を問うているのだ。

 演劇人としての浅利の原点は、父、浅利鶴雄から譲り受けたものだ。

 鶴雄は、歌舞伎の名優2代目市川左団次の甥で、“新劇のメッカ”と言われた「築地小劇場」の創立同人でもある。後に松竹に移ったが、役員の一歩手前で辞し、終戦の1年前、45歳で演技研究生として俳優座に入ったほどの芝居好きだった。

 父の日にちなんだエッセイの中で浅利は、高校生の頃、父に連れられて初めて歌舞伎を見に行った時のエピソードを披露している。

 当時、浅利家は困窮の疎開生活を送っていた。父がある日、歌舞伎を見に行こうと言い、松竹のかつての部下に頭を下げて、2人に無料で見せてくれるよう頼んだ。

 案内された2階正面席には誰もいなかった。浅利が最前列に座ろうとすると父が止め、パイプの補助いすを指した。タダで見せてもらうから卑下しているんだと思って、補助いすに小さくなって座りながら、浅利は「屈辱で顔が真っ赤になった」。帰り道になじるように理由を聞くと、父は「客席はお客様の座るところ。本当の芝居者はたとえ不入りでも立ったまま舞台を見なければいけない」と諭したという。

 「父から客席に対する劇場人の心構えを植えつけられたせいか、僕は客の入りはどんな批評より深い反応だと思う」と言い切る。浅利が熱を込めて「お客様あってこそ役者は生きられる」と語る時、芝居者の基本原則に忠実だった父の生き方が重なっている。

 「どんなに苦労しても芝居は観客と出会わなければダメだ。社会的な状況を拒否しながら芸術至上主義を唱えても意味がない」

 ただ、この結論に到達するまでに費やした時間は長かった。慶応義塾大学時代、浅利は既に「左翼思想の観念主義に挫折と絶望感を感じていた」。慶応高校時代の教師にフランス演劇に傾倒していた劇作家がいたこともあり、大衆派の市民劇を志向していた。四季旗揚げの頃は「社会的なものを全く拒否した演劇を10年ほどやっていた」と言うが、ある時、観客に価値を分かってもらえなければ、いくら高尚な芝居をやっても意味はないと悟ったという。

 「その時に立ち返った理念というのが、日本の社会だった。日本に演劇というものを広め、定着させたい、という理念だ」と浅利は語る。

 浅利と30年以上の友人であるウシオ電機会長、牛尾治朗は「演劇に対する熱い思いは昔から変わらないが、いろいろな経験を積んで視野が広がり、演劇を取り巻く問題を総合的にとらえて発言するようになった」と評する。