父から学んだ「恩返し」

 栗城の父・敏雄は幼い頃の事故がもとで、背骨に損傷を負った。いったん傷が癒えても、医者に「成長期は越せない」とさじを投げられるほどの重症。幸いにも命はつないだが、今も体は曲がり、背は140cmほどしかない。

 敏雄はその体がもとで、様々な経験を余儀なくされた。若い頃に就職の面接で訪れたある訪問先では、面と向かって「客の前に出ないことが条件」と言われた。敏雄は今でも、その時のことを忘れることができない。

 だが栗城から見て、敏雄はそんなハンディを感じさせない父親だった。地域のお祭りで勝手に舞台に上がるなど、人前にも進んで出た。「どちらかというと、体のことがあるから人の倍、頑張ろうという感じ」と、栗城は語る。

 栗城には小学生の頃、大きな衝撃を受けた出来事があった。敏雄が地元の北海道今金町に「温泉を掘る」と言い出したのだ。営んでいた眼鏡店の客が「地元に温泉でもあれば」と漏らしたことがきっかけという。近くの河川敷に冬でも雪が溶ける場所があり、敏雄は1人でスコップを振るい始めた。

 栗城は当時、息子ながら「何をバカなことを」と感じていた。だが地道な作業を続ける敏雄の周りには、次第に賛同者が集まり始めた。「450軒くらいかな、いろんな家を回って、600万円くらいの寄付を集めてさ。専門の先生の地質調査で『湧出可能性あり』となって、ボーリング(掘削)したら出たのよ」。敏雄はうれしそうに、当時の様子を話す。「みんな喜んでくれてさ」。

 幼い栗城に、町民の輪の中で喜ぶ父の姿は輝いて見えた。1人の人間がきっかけを作ることで、多くの人に喜びを与えられることを、栗城は父から学んだ。

 敏雄が栗城の人生に大きく影響を与えた出来事はもう1つある。大学3年でマッキンリーへ登ろうと計画した時、栗城は海外に行くこと自体が初めてだった。周囲に賛成する人は誰もおらず、知り合いという知り合いに翻意を促された。「父も『息子を死なせに行くのか』って、いろんな人に怒られていたみたい」と栗城は明かす。

 敏雄も「聞いた時はバカヤロー、と思った」というが、反対はしなかった。敏雄に言わせれば「息子はもう20歳を過ぎた大人」だった。そして出発の日、空港にいる栗城の携帯電話を鳴らし「おまえを信じている」と伝えた。

 「もしあの時、父にも引き留められたら行けなかった」と栗城は言う。多くの反対で弱気になった心を、父の言葉が支えた。そして敏雄は、もう一言だけ息子につけ加えた。「生きて帰って、お世話になった人に必ず何かを返せ」。栗城が幼い頃から、「自分があるのは人のおかげ」と繰り返し言い聞かせていた敏雄らしい言葉だった。

困難に打ち勝つのが役目

 栗城は今、凍傷を負った指の治療に専念している。9本の指は、通常ならすぐにでも切断しなければならない状態という。だが2月末の時点で栗城は、指の再生を目指して治療を続けている。

 メディアの露出が多く、ツイッターやフェイスブックなどの交流サイトも積極的に利用する栗城には、批判も多い。「無謀」「プロ下山家」「素人」。ネットには容赦のない言葉が飛び交う。特に、栗城の登山に「単独・無酸素」との表現が用いられることに対しては「メディア的なウケを狙った誇張」といった指摘が多い。現実に、山岳会などが記録を認めていない登頂もある。

 栗城はそういった批判を甘んじて受ける。批判を避けるのなら、露出を減らし、ネット中継などのカネのかかるチャレンジをやめ、正統と認められるスタイルの登山に切り替える選択もある。だが、それでは意味がない。

 標高8000mの風雪も、平地での批判や中傷も、栗城の目には同じ「乗り越えなければならない障壁」に映る。「批判されるのは辛い。でも、困難に打ち勝つことこそが、冒険家という仕事の役目」と受け止める。

 2月4日、栗城は自身のフェイスブックに新たな投稿を載せた。黒く染まった指の画像とともに、「少しでも可能性があれば、諦める必要はない」と綴った。そこには、「撤退も勇気」などと諌めるコメントのほかに、共感の意思を示す「いいね!」が15万件以上寄せられた。かつて、たった1人で自分の挑戦を支えてくれた父の姿が、まぶたの裏でちらつく。