とくに、ユーロ危機がキャメロン首相の立場を苦しくした。危機のさなか、首脳たちが打開策に額を突き合わせていたとき、キャメロン首相は「英国はユーロに入っていなくてよかった」と知らぬ顔をした。この発言がEUの首脳のひんしゅくを買い、キャメロン首相はますます蚊帳の外に置かれることになった。キャメロン首相自身、1992年の英ポンドの欧州通貨制度(EMS)からの離脱に関わった経験があるだけに、通貨危機の怖さを肌で感じていたのだろう。

 EU離脱をめぐる国民投票で、ひょう変したのは、キャメロン首相のライバルだったジョンソン氏だった。それまでEU残留を唱えていたのに、離脱派の急先鋒(せんぽう)に大変身したのである。その扇動的な演説は、ポピュリスト(大衆迎合主義者)そのものだった。

 キャメロン首相は国民投票でEU残留を固める勝算はあったのだろうか。議会制民主主義の元祖・英国にあって、国民投票という直接選挙に危うさを感じない政治家はいないはずだ。キャメロン首相はもともとEU懐疑派である。国民投票に敗れても、それは国民の意思だから、それでいいと考えていたのではないか。

 ブリュッセルのEU官僚(ユーロクラート)嫌いで有名なサッチャー首相も、EU残留で国民投票にかけるといった危険な選択は決してしなかったはずだ。保守党のリーダーとして欧州共同体(EC)加盟に熱心に取り組んできた。

 キャメロン首相の大失策は戦後英国政治の歴史に残るものだろう。

チャーチルの誤算

 英国にはかつての「大英帝国」への強い思い入れがある。しかし、それは幻想にすぎない。第2次大戦の英雄であり、戦後の国際秩序を築いた巨頭のひとりであるウィンストン・チャーチルですら、戦後世界における英国の位置づけを見誤っていた。

 「欧州合衆国」構想をいち早く提起し、「欧州統合の父」ジャン・モネを大いに刺激したチャーチルだが、英国自身はこの「欧州合衆国」構想の内には想定していなかった。”not in,but with”(中にではなく、ともに)と述べている。このチャーチルの構想で、英国は欧州統合構想に乗り遅れる。

 英国を警戒するドゴール仏大統領の拒否権発動もあり、英国のEC加盟は申請から実現まで12年の時間を要した。そこには、戦中のヤルタ会談に米国のルーズベルト大統領、ソ連のスターリン首相とともに参加したチャーチルの大国意識が潜んでいた。戦後世界は米英ソの超大国によって運営されるという誤った世界観があった。もちろんチャーチルは英国の力の衰えを肌で感じてはいたが、大国意識がなかなか抜け出せなかったのである。

EU依存で英国病を克服

 戦後の英国病に悩まされ続けた英国が再生できたのは、サッチャー首相の改革による面もあるが、それ以上にEU依存、外資依存の経済構造を築き上げたことが大きい。

 英国経済は輸出入ともEU依存が大半で、自由で巨大なEU市場に照準を合わせて外資が導入された。日米などの外資は、英国一国ではなくEU市場全体を視野に入れていた。英国の外資依存は他の先進国より圧倒的に高く、ウィンブルドン現象と呼ばれるほどだ。空港、港湾、電力、水道など基本的な社会インフラまで外資依存である。英国はEU全体のサプライチェーンの核になってきた。