そんななかで来日した米チームは大リーグではなく、3Aのサンフランシスコ・シールズだった。その格下のチームでさえ全日本軍は全く通用せず6連敗に終わる。法政大学の関根潤三投手の活躍が目立ったくらいである。子供のころこの試合を観戦したジャーナリストの友人によると、周りには連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の幹部たちが陣取っていたという。
高度成長期にかけて来たスーパースターたち
高度成長期になると、米大リーグの有力チームがスーパースターを中心に編成して来日する。そのスーパースターたちのプレーは日本の観客だけでなく、対戦する日本の選手たちもあこがれと尊敬のまなざしでみていた。
子供のころから野球狂だった筆者が心に残っているのは、ニューヨーク・ヤンキース(1955年)のヨギ・ベラ捕手、ブルックリン・ドジャース(1956年)のロイ・キャンパネラ捕手らだ。当時、ドジャースはニューヨークのブルックリンに本拠を置いていた。
最も尊敬されていたのは、セントルイス・カージナルス(1958年)のスタン・ミュージアル選手である。「スタン・ザ・マン」と呼ばれたこの名選手は、来日時には晩年を迎えていたが、野球選手以上に「最良の米国人」に思えた。映画俳優でいえば、ジェームス・スチュアートやヘンリー・フォンダのような風格と品の良さがあった。
サンフランシスコ・ジャイアンツ(1960年)のウィリー・メイズ選手は「ザ・キャッチ」といわれるスーパー・キャッチで知られるが、攻守に桁違いの身体能力を見せた。
この時代、大リーグのスタープレーヤーと日本の一流選手との差は歴然としていた。経済白書が「戦後は終わった」と書いた高度成長期に向かう時代は、経済も野球もキャッチアップの時代だったのである。
日米接近で競合へ
高度成長を経て、日本は米国に次ぐ世界第2の経済大国に成長する。日米野球もかなりいい勝負ができるようになっていく。1970年にはサンフランシスコ・ジャイアンツに勝ち越したほどだ。ON(王・長嶋)の活躍もあり、野球でも日米接近から競合の時代が始まった。
しかし、吸引力が大きかったのはやはり本場の米大リーグである。野茂英雄投手を先頭に、イチロー、佐々木主浩、松井秀喜ら一流選手が競うように大リーグに新天地を求めた。それはいまの大谷翔平選手にまでつながっている。日本企業の対米投資の伸びとも重なってくる。
もっとも、大リーグでの日本人選手の活躍の場は、投手とイチロー、松井ら超一流の外野手に限られているようにみえる。日本人内野手には成功例が少ない。日米野球の差を最も感じるのは内野守備だ。瞬発力や肩の強さには、なお大きな差がある。対米投資同様、大リーグへの進出も得意分野に集中する必要がありそうだ。
融合する野球、きしむ経済関係
大リーグ選抜のマッティングリー監督は試合のため訪れた広島で、カープ出身の前田健太投手らとともに、原爆慰霊碑に花束をささげた。マッティングリー監督は原爆資料館では「われわれは悲劇を忘れない。野球を通じて得た友情を慈しみ、ともに平和を願う」と記帳した。日米野球が日米友好に貢献しているしるしだろう。戦前の大リーグ選抜にスパイ選手がいたことを考えると大きな変化である。日米野球は変遷を経ていま「融和の時代」を迎えている。
これに対して、日米経済関係には再び緊張感が漂っている。トランプ大統領が仕掛けた貿易戦争が、日本経済を巻き込もうとしているからだ。
来年始まる物品貿易協定(TAG)をめぐる交渉で、米側は自動車関税の大幅引き上げをちらつかせながら、数量規制など「管理貿易」の動きを強めるだろう。通貨安誘導をしない為替条項の導入も求める可能性がある。対米投資をさらに促すのが狙いだ。だいいち、来日したペンス米副大統領はこの交渉を、日本が警戒する「日米自由貿易協定(FTA)」に位置付けている。
日米同盟を堅持しながら、貿易の2国間主義をどう打開するか、安倍晋三政権は正念場を迎える。米国第一主義に固まるトランプ政権下では、日米野球のように「融和の時代」を迎えるのは簡単ではないだろう。
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