マッティングリー選手がすごいのは打撃だけではなかった。1塁手としてゴールデングラブ賞を9度も受賞した守備の名手でもあった。打撃スタイルと同じように、地面と平行に低く構えて俊敏に動く。守備のうまさを買われ、左投げなのに、3塁手に起用されたこともあるほどだ。
日米の師弟関係
マッティングリー選手はキャプテンをつとめ、背番号「23」は永久欠番になったが、不運にも現役時代、1度もワールドチャンピオンになれなかった。ヤンキースではジョー・トーリ監督のもとで打撃コーチをつとめ、デレク・ジーター選手や松井選手を指導した。ヤンキース時代の松井選手と話したとき、マッティングリー氏をいかに尊敬しているかが伝わってきた。
この師弟関係から、米代表の監督・コーチの組み合わせが生まれたと思われる。マッティングリー氏は当然、ヤンキースの有力な監督候補だったが、実現せず、いまマーリンズの監督をつとめている。いずれヤンキースに戻り監督になってほしいと多くのニューヨークっ子が願っている。そのときには、松井打撃コーチとしてヤンキース復帰も期待される。
大リーグ代表に加わったスパイ選手
戦前の米大リーグ代表で最も歴史的なのは1934年のチームだろう。名将、コニー・マック監督のもと、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックスがクリーンアップを組むドリームチームだった。この史上最強の打線に挑んだのが17歳の沢村栄治投手だった。全日本チームは16連敗に終わる。
このドリームチームにはしかし影の部分があった。控え捕手として参加したモーリス・バーグ選手が実はスパイだったことだ。地味ながらボストン・レッドソックスやシカゴ・ホワイトソックスでそれなりの実績があった。しかし大リーガーとしてより期待されたのがスパイとしての能力だった。そこには大不況から第2次世界大戦に向かう時代背景がある。プリンストン大学と、コロンビア大学ロースクールを出て、12カ国語を操る秀才野球選手をスパイに育てざるをえなかったのは大きな悲劇だった。
バーグ選手はある試合を抜け出して、東京・明石町の聖路加国際病院の屋上から東京市街を16ミリフィルムにおさめた。この映像は第2次世界大戦の東京大空襲に使用されたといわれる。
戦後復興期には3Aが米代表
1949年、それは占領下の日本で戦後復興への分岐点になった年である。米政府は円ドル相場は相当な円安水準である1ドル=360円に設定する。中国で共産党による中華人民共和国が誕生するなど、冷戦が始まろうとしていた。朝鮮戦争も目前にしていた。そんななかで米政府は日本を西側陣営の最前線として再建することを目論むようになる。1ドル=360円の固定相場は「復興支援レート」だったのである。
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