ドン・マッティングリー監督(左)と松井秀喜氏(写真=AP/アフロ)
日米野球には、激動の日米関係が映し出されている。日本代表が米大リーグ(MLB)オールスターチームと互角に戦うとは、時代の変化を感じざるをえない。大恐慌後の1934年に来日したベーブ・ルースらの米チームにはスパイの選手がいた。第二次大戦の東京空襲に使用する映像を撮っていた。
戦後の復興期に来日したのは大リーグではなく3Aチームだった。それでも日本は歯が立たなかった。高度成長期にかけて来日したスーパースターには力量にも風格にも圧倒された。今年の米チームはドン・マッティングリー監督のもと松井秀喜氏がコーチをつとめる。野球は融和の時代を迎えたが、激動を続けた日米関係は経済摩擦を超えて新たな時代を築けるだろうか。
元祖「最強の2番打者」マッティングリー
いま大リーグでは2番に最強打者を置くことが多い。得点能力が最も高くなると考えられているからだ。日本では2番打者といえば、走者を進める流し打ちやバントの巧みなチームプレーに徹する選手を置くのが普通だが、大リーグではまったく違ってきている。
この「最強の2番打者」は実は1980年代の米大リーグにいた。ニューヨーク・ヤンキースのマッティングリー選手である。今回、米大リーグを率いる監督として来日した。筆者は、1985年、日本経済新聞のブリュッセル特派員からニューヨーク支局長になり、いきなり大リーグ熱にうかされてしまう。
野球の不毛地帯であるブリュッセルで野球に飢えていたせいもあるが、何よりマッティングリーという素晴らしい選手を目の当たりにしたことが大きかった。「野球は米国の文化だ」と言い訳して、ヤンキー・スタジアムに通ったが、実はマッティングリー選手をみるためだった。
地面と平行に低く構えた打席から、外野の間を抜くライナーを放つ。決してホームランバッターではないが、チャンスに無類に強かった。その強打者がなぜ2番を打つのか不思議に思い、巨人でも活躍したヤンキースのロイ・ホワイト打撃コーチに取材したことがある。
「ふつう最強打者は3番に置くが、ビリー・マーチン監督が考え出したのはトップヘビーの打線だ」と教えてくれた。1番は快速で盗塁記録を持つリッキー・ヘンダーソン選手、そして3番は3千本安打のパワー・ヒッター、デーブ・ウィンフィールド選手。その間にマッティングリー選手が座る。このトップヘビーの3人が大半の得点源になっていた。
マッティングリー選手がすごいのは打撃だけではなかった。1塁手としてゴールデングラブ賞を9度も受賞した守備の名手でもあった。打撃スタイルと同じように、地面と平行に低く構えて俊敏に動く。守備のうまさを買われ、左投げなのに、3塁手に起用されたこともあるほどだ。
日米の師弟関係
マッティングリー選手はキャプテンをつとめ、背番号「23」は永久欠番になったが、不運にも現役時代、1度もワールドチャンピオンになれなかった。ヤンキースではジョー・トーリ監督のもとで打撃コーチをつとめ、デレク・ジーター選手や松井選手を指導した。ヤンキース時代の松井選手と話したとき、マッティングリー氏をいかに尊敬しているかが伝わってきた。
この師弟関係から、米代表の監督・コーチの組み合わせが生まれたと思われる。マッティングリー氏は当然、ヤンキースの有力な監督候補だったが、実現せず、いまマーリンズの監督をつとめている。いずれヤンキースに戻り監督になってほしいと多くのニューヨークっ子が願っている。そのときには、松井打撃コーチとしてヤンキース復帰も期待される。
大リーグ代表に加わったスパイ選手
戦前の米大リーグ代表で最も歴史的なのは1934年のチームだろう。名将、コニー・マック監督のもと、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックスがクリーンアップを組むドリームチームだった。この史上最強の打線に挑んだのが17歳の沢村栄治投手だった。全日本チームは16連敗に終わる。
このドリームチームにはしかし影の部分があった。控え捕手として参加したモーリス・バーグ選手が実はスパイだったことだ。地味ながらボストン・レッドソックスやシカゴ・ホワイトソックスでそれなりの実績があった。しかし大リーガーとしてより期待されたのがスパイとしての能力だった。そこには大不況から第2次世界大戦に向かう時代背景がある。プリンストン大学と、コロンビア大学ロースクールを出て、12カ国語を操る秀才野球選手をスパイに育てざるをえなかったのは大きな悲劇だった。
バーグ選手はある試合を抜け出して、東京・明石町の聖路加国際病院の屋上から東京市街を16ミリフィルムにおさめた。この映像は第2次世界大戦の東京大空襲に使用されたといわれる。
戦後復興期には3Aが米代表
1949年、それは占領下の日本で戦後復興への分岐点になった年である。米政府は円ドル相場は相当な円安水準である1ドル=360円に設定する。中国で共産党による中華人民共和国が誕生するなど、冷戦が始まろうとしていた。朝鮮戦争も目前にしていた。そんななかで米政府は日本を西側陣営の最前線として再建することを目論むようになる。1ドル=360円の固定相場は「復興支援レート」だったのである。
そんななかで来日した米チームは大リーグではなく、3Aのサンフランシスコ・シールズだった。その格下のチームでさえ全日本軍は全く通用せず6連敗に終わる。法政大学の関根潤三投手の活躍が目立ったくらいである。子供のころこの試合を観戦したジャーナリストの友人によると、周りには連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の幹部たちが陣取っていたという。
高度成長期にかけて来たスーパースターたち
高度成長期になると、米大リーグの有力チームがスーパースターを中心に編成して来日する。そのスーパースターたちのプレーは日本の観客だけでなく、対戦する日本の選手たちもあこがれと尊敬のまなざしでみていた。
子供のころから野球狂だった筆者が心に残っているのは、ニューヨーク・ヤンキース(1955年)のヨギ・ベラ捕手、ブルックリン・ドジャース(1956年)のロイ・キャンパネラ捕手らだ。当時、ドジャースはニューヨークのブルックリンに本拠を置いていた。
最も尊敬されていたのは、セントルイス・カージナルス(1958年)のスタン・ミュージアル選手である。「スタン・ザ・マン」と呼ばれたこの名選手は、来日時には晩年を迎えていたが、野球選手以上に「最良の米国人」に思えた。映画俳優でいえば、ジェームス・スチュアートやヘンリー・フォンダのような風格と品の良さがあった。
サンフランシスコ・ジャイアンツ(1960年)のウィリー・メイズ選手は「ザ・キャッチ」といわれるスーパー・キャッチで知られるが、攻守に桁違いの身体能力を見せた。
この時代、大リーグのスタープレーヤーと日本の一流選手との差は歴然としていた。経済白書が「戦後は終わった」と書いた高度成長期に向かう時代は、経済も野球もキャッチアップの時代だったのである。
日米接近で競合へ
高度成長を経て、日本は米国に次ぐ世界第2の経済大国に成長する。日米野球もかなりいい勝負ができるようになっていく。1970年にはサンフランシスコ・ジャイアンツに勝ち越したほどだ。ON(王・長嶋)の活躍もあり、野球でも日米接近から競合の時代が始まった。
しかし、吸引力が大きかったのはやはり本場の米大リーグである。野茂英雄投手を先頭に、イチロー、佐々木主浩、松井秀喜ら一流選手が競うように大リーグに新天地を求めた。それはいまの大谷翔平選手にまでつながっている。日本企業の対米投資の伸びとも重なってくる。
もっとも、大リーグでの日本人選手の活躍の場は、投手とイチロー、松井ら超一流の外野手に限られているようにみえる。日本人内野手には成功例が少ない。日米野球の差を最も感じるのは内野守備だ。瞬発力や肩の強さには、なお大きな差がある。対米投資同様、大リーグへの進出も得意分野に集中する必要がありそうだ。
融合する野球、きしむ経済関係
大リーグ選抜のマッティングリー監督は試合のため訪れた広島で、カープ出身の前田健太投手らとともに、原爆慰霊碑に花束をささげた。マッティングリー監督は原爆資料館では「われわれは悲劇を忘れない。野球を通じて得た友情を慈しみ、ともに平和を願う」と記帳した。日米野球が日米友好に貢献しているしるしだろう。戦前の大リーグ選抜にスパイ選手がいたことを考えると大きな変化である。日米野球は変遷を経ていま「融和の時代」を迎えている。
これに対して、日米経済関係には再び緊張感が漂っている。トランプ大統領が仕掛けた貿易戦争が、日本経済を巻き込もうとしているからだ。
来年始まる物品貿易協定(TAG)をめぐる交渉で、米側は自動車関税の大幅引き上げをちらつかせながら、数量規制など「管理貿易」の動きを強めるだろう。通貨安誘導をしない為替条項の導入も求める可能性がある。対米投資をさらに促すのが狙いだ。だいいち、来日したペンス米副大統領はこの交渉を、日本が警戒する「日米自由貿易協定(FTA)」に位置付けている。
日米同盟を堅持しながら、貿易の2国間主義をどう打開するか、安倍晋三政権は正念場を迎える。米国第一主義に固まるトランプ政権下では、日米野球のように「融和の時代」を迎えるのは簡単ではないだろう。
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