ブラックマンデーでの「成功」とその代償
そのグリーンスパン氏は、FRB議長就任早々、ブラックマンデーに見舞われる。ウォール街の独自の人脈に電話をかけまくって株価暴落の実態を知ると、すかさず大量の流動性供給を実行して危機を乗り切る。
危機には機敏に対処する。ウォール街出身でなければ、こうはいかなかったかもしれない。その手腕は高く評価された。しかし、ブラックマンデーでの「成功」体験は、大きな代償を伴うことになる。グリーンスパン金融政策は株価重視に傾斜していく。
もちろん、グリーンスパン氏も株高が予想を超えて進行した際には「根拠なき熱狂」(1996年12月)と警告を発することを忘れなかった。金融引き締め局面も緩和局面も「ファイン・チューニング」(微調整)を旨とし、市場との対話を通じて政策を市場に織り込ませた。だから、市場の波乱は小さくて済んだ。「マエストロ」の呼び名はこのあたりから来ている。しかし、株価重視の金融政策は、潜在的リスクをはらんでいた。

近すぎた政治との距離
グリーンスパン氏の金融政策は政治との距離の近さが強みでもあり弱みでもあった。フォード政権下で大統領経済諮問委員会(CEA)委員長をつとめて以来、ずっと大統領の経済指南役を引き受けてきた。いわゆる純粋経済学者ではないウォール街の民間エコノミストとして、ワシントン中枢との近さは異例といえた。
共和党員でもあるグリーンスパン氏は、共和党政権下での国策に全面協力することになる。2003年、ブッシュ大統領が始めたイラク戦争に対応して、金融緩和を必要以上に継続することになる。それは「ブッシュの戦争」に対する金融政策による「後方支援」だったのである。
この金融緩和の行き過ぎがFRB議長退任後、2007年のサブプライム危機、さらには2008年のリーマンショックの遠因になる。グリーンスパンFRB議長の功罪が問われるのはこのためである。
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