冷戦末期、日本経済新聞のブリュッセル特派員として、西欧社会をおおう米ソ緊張は大きな取材対象だった。とりわけ反核運動のなかの米ソ核軍縮交渉の取材には緊張させられた。1987年11月23日、スイス・ジュネーブの米ソの欧州INF削減交渉を取材したときのことだ。

 ジュネーブの朝は冷え込みが厳しく、分厚い靴底からも冷たさが伝わってきた。レマン湖に近い雑居ビルで開いた米ソINF交渉は、わずか30分で終わる。雑居ビルから出てきたソ連のクビツィンスキー代表は記者団に取り囲まれる。「交渉継続か」との問いに、代表は「ノー」と大声で答えた。西独議会が米国の核ミサイル・パーシングⅡの配備を議決したのに抗議した、交渉からの退出だった。

 「欧州INF削減交渉が中断」という記事を送稿した。日本経済新聞1面に掲載された記事は米ソ緊張がピークに達したことを示していた。しかし、この「交渉中断」に米側のポール・ニッツェ代表は冷静だった。「これは完全な交渉停止ではない。ソ連が応じるなら、いつでもジュネーブに戻る」と語った。

 「ソ連封じ込め」論のジョージ・ケナン氏の後継者で伝説の外交官として知られるニッツェ氏はあくまで冷静だった。クビツィンスキー代表との「森の散歩」でINF削減交渉の打開の道を探ってきた。ニッツェ氏には何らかの展望があったのだろう。

 もちろんINF交渉の中断で米ソ緊張は一気に高まった。米核ミサイルの配備を求められたオランダのルベルス首相は悩んでいた。NATOの一員としての役割と、反核運動にみられる市民の意識のはざまで対応に苦慮していた。ルベルス首相と会見した際のことだ。ハーグの狭い首相執務室で若き首相が頭をかきむしっていたのを見た。ルベルス首相は結局、核ミサイル配備の延期を決断することになる。

 このルベルス首相の苦渋の決断は、米ソの歩み寄りに道を開くことになる。1985年3月、ソ連にゴルバチョフ政権が誕生したのが大きな転機になる。米ソ首脳会談はレイキャビクを皮切りにワシントン、モスクワと毎年続けられた。そして、ついに米ソはINF廃棄条約の調印にこぎつけた。ニッツェ氏の冷静な分析は現実化した。しかし、それには4年を要したのである。

深まるNATOの亀裂

 INF廃棄条約とそれによる冷戦の終結で「欧州の悪夢」は消えたが、トランプ大統領の登場でNATOの亀裂は深刻になっている。大統領のNATO不信は米欧同盟を根幹から揺さぶった。それに、今回のINF廃棄条約の破棄方針である。

 ドイツのマース外相は「条約は過去30年間、欧州安全保障の柱だった」とし、「過去にはロシアの条約違反の疑いを指摘してきたが、今は米国に結果を考えるよう促さなければならない」と再考を求めた。これに対して、英国のウィリアムソン国防相はトランプ大統領の方針を「毅然として支持する」と指摘している。

 ドイツは天然ガスパイプライン事業などでロシアとの協力関係が深い一方、英国は元ロシア情報機関員の暗殺未遂などにより、ロシアとのあつれきが深まっている。トランプ方針に対する対応の差で、NATOの運営はさらに難しくなる恐れもある。

新次元の米中対立

 INF廃棄条約破棄をめぐるトランプ大統領の方針は、対ロシアだけでなく、貿易戦争さなかの中国にも照準を合わせている。オバマ政権下で進んだ核軍縮でも、中国はひとり蚊帳の外にあった。核増強の大半は中距離核戦力にあてられた。たしかに米ロ間のINF廃棄条約の外にあるのは、中国にとって好都合だったのかもしれない。

 トランプ大統領が仕掛ける貿易戦争は、先端分野での米中覇権争いの様相をみせている。いわば「経済冷戦」である。

 それが核軍拡競争に点火すれば、「経済冷戦」にとどまらず「新冷戦」になりかねない。安全保障をめぐって米国と中ロがにらみ合う世界は危険そのものである。

米朝首脳会談は核軍縮の好機だった

 米朝首脳会談が真に歴史的会談になるとすれば、朝鮮半島の非核化を確実に実行するだけでなく、それを核軍縮につなげることだった。米ロ中はもちろん、英仏、インド、パキスタン、それにイスラエルも含めてすべての核保有国に核軍縮を求め、「核兵器なき世界」への道筋をつけることだった。

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