訪ロしたボルトン米大統領補佐官(国家安全保障担当)(写真=AP/アフロ)
トランプ米大統領が冷戦終結と核軍縮を導いた歴史的な中距離核戦力(INF)廃棄条約を破棄する方針を打ち出した。ロシアが条約を履行せず、条約の枠外にある中国が核増強に動いているとみたためだが、米中「経済冷戦」は米ロ中の「新冷戦」に足を踏み入れる危険がある。
これは、オバマ米前大統領の「核兵器なき世界」を葬り去ろうとするものである。米朝首脳会談は朝鮮半島の非核化をてこに、核軍縮にはずみをつけてこそ歴史的意義がある。トランプ大統領によるINF条約破棄は、核軍拡競争を再燃させ、世界を再び「核の危機」にさらしかねない。新冷戦を防ぐため、唯一の被爆国である日本の責任は重大だ。
冷戦終結と核軍縮を導いた歴史的条約
1987年、当時のレーガン米大統領と旧ソ連のゴルバチョフ書記長が調印したINF廃棄条約は、1989年のベルリンの壁崩壊から両独統一、ソ連解体につながる冷戦終結への突破口となった。それは、START1(第1次戦略核兵器削減条約)、START2(第2次戦略核兵器削減条約)にも波及し、世界の核軍縮を軌道に乗せた。
トランプ大統領はこの歴史的な条約について、「ロシアや中国が戦力を増強しているのに、米国だけ条約を順守することは受け入れられない」とし、「合意は終わらせる」と表明した。さらに「我々は戦力を開発する必要がある」と核増強をめざす方針を示した。
たしかにロシアが条約を順守していないという疑念はオバマ政権時代からあった。2014年の米議会への報告で、条約違反が指摘されている。米国が問題にするのは、ロシアが実戦配備したとされる新型の巡航ミサイル「SSC8」だ。射程500~5500キロメートルの地上発射型の巡航ミサイルの開発や配備を禁じるこの条約に違反しているとみている。ハチソン北大西洋条約機構(NATO)大使は「このミサイルを排除することだ」と述べている。
ゴルバチョフ氏の怒り
問題は、ロシア側に疑念があるからといって、ロシアに条約順守を徹底させる前に、この歴史的条約を一挙に破棄してしまうのかという点である。レーガン氏とともに条約に調印したゴルバチョフ氏は怒る。トランプ大統領の方針について「危険な後退であり、歴史的な前進を脅かすものだ」と警告している。歴史的条約の当事者だけに重みがある。
訪ロしたボルトン米大統領補佐官(国家安全保障担当)と会談したプーチン・ロシア大統領は「ロシアは何もしていないのに、米国の取る手段には驚かされる」と皮肉交じりに批判した。中国外務省の報道官は、トランプ大統領がINF廃棄条約破棄の理由に中国の核増強をあげたことに「完全な誤りだ」と反発した。フランスのマクロン大統領はトランプ大統領に電話を入れ「条約は欧州の安全保障にとって重要だ」と懸念を表明した。米国にも与党・共和党内に「歴代大統領の功績をくつがえすのは間違いだ」という批判がある。
欧州「核危機」の悪夢
冷戦時代、米ソ合わせて6万発を超す核弾頭は、世界を核の脅威にさらしていた。とりわけ冷戦末期、欧州は「核危機」の悪夢にさいなまれていた。ソ連が中距離核ミサイルSS20を配備したのに対抗して、NATO加盟の西欧諸国には米核ミサイルの配備計画が進行していた。この核危機のなかで、西欧には反核運動が広がった。この反核運動はソ連の誘導ではないかという説もあったが、それは欧州の市民運動そのものだった。そこには、米ソ対立の余波をまともに受ける西欧の社会の苦悩があった。
冷戦末期、日本経済新聞のブリュッセル特派員として、西欧社会をおおう米ソ緊張は大きな取材対象だった。とりわけ反核運動のなかの米ソ核軍縮交渉の取材には緊張させられた。1987年11月23日、スイス・ジュネーブの米ソの欧州INF削減交渉を取材したときのことだ。
ジュネーブの朝は冷え込みが厳しく、分厚い靴底からも冷たさが伝わってきた。レマン湖に近い雑居ビルで開いた米ソINF交渉は、わずか30分で終わる。雑居ビルから出てきたソ連のクビツィンスキー代表は記者団に取り囲まれる。「交渉継続か」との問いに、代表は「ノー」と大声で答えた。西独議会が米国の核ミサイル・パーシングⅡの配備を議決したのに抗議した、交渉からの退出だった。
「欧州INF削減交渉が中断」という記事を送稿した。日本経済新聞1面に掲載された記事は米ソ緊張がピークに達したことを示していた。しかし、この「交渉中断」に米側のポール・ニッツェ代表は冷静だった。「これは完全な交渉停止ではない。ソ連が応じるなら、いつでもジュネーブに戻る」と語った。
「ソ連封じ込め」論のジョージ・ケナン氏の後継者で伝説の外交官として知られるニッツェ氏はあくまで冷静だった。クビツィンスキー代表との「森の散歩」でINF削減交渉の打開の道を探ってきた。ニッツェ氏には何らかの展望があったのだろう。
もちろんINF交渉の中断で米ソ緊張は一気に高まった。米核ミサイルの配備を求められたオランダのルベルス首相は悩んでいた。NATOの一員としての役割と、反核運動にみられる市民の意識のはざまで対応に苦慮していた。ルベルス首相と会見した際のことだ。ハーグの狭い首相執務室で若き首相が頭をかきむしっていたのを見た。ルベルス首相は結局、核ミサイル配備の延期を決断することになる。
このルベルス首相の苦渋の決断は、米ソの歩み寄りに道を開くことになる。1985年3月、ソ連にゴルバチョフ政権が誕生したのが大きな転機になる。米ソ首脳会談はレイキャビクを皮切りにワシントン、モスクワと毎年続けられた。そして、ついに米ソはINF廃棄条約の調印にこぎつけた。ニッツェ氏の冷静な分析は現実化した。しかし、それには4年を要したのである。
深まるNATOの亀裂
INF廃棄条約とそれによる冷戦の終結で「欧州の悪夢」は消えたが、トランプ大統領の登場でNATOの亀裂は深刻になっている。大統領のNATO不信は米欧同盟を根幹から揺さぶった。それに、今回のINF廃棄条約の破棄方針である。
ドイツのマース外相は「条約は過去30年間、欧州安全保障の柱だった」とし、「過去にはロシアの条約違反の疑いを指摘してきたが、今は米国に結果を考えるよう促さなければならない」と再考を求めた。これに対して、英国のウィリアムソン国防相はトランプ大統領の方針を「毅然として支持する」と指摘している。
ドイツは天然ガスパイプライン事業などでロシアとの協力関係が深い一方、英国は元ロシア情報機関員の暗殺未遂などにより、ロシアとのあつれきが深まっている。トランプ方針に対する対応の差で、NATOの運営はさらに難しくなる恐れもある。
新次元の米中対立
INF廃棄条約破棄をめぐるトランプ大統領の方針は、対ロシアだけでなく、貿易戦争さなかの中国にも照準を合わせている。オバマ政権下で進んだ核軍縮でも、中国はひとり蚊帳の外にあった。核増強の大半は中距離核戦力にあてられた。たしかに米ロ間のINF廃棄条約の外にあるのは、中国にとって好都合だったのかもしれない。
トランプ大統領が仕掛ける貿易戦争は、先端分野での米中覇権争いの様相をみせている。いわば「経済冷戦」である。
それが核軍拡競争に点火すれば、「経済冷戦」にとどまらず「新冷戦」になりかねない。安全保障をめぐって米国と中ロがにらみ合う世界は危険そのものである。
米朝首脳会談は核軍縮の好機だった
米朝首脳会談が真に歴史的会談になるとすれば、朝鮮半島の非核化を確実に実行するだけでなく、それを核軍縮につなげることだった。米ロ中はもちろん、英仏、インド、パキスタン、それにイスラエルも含めてすべての核保有国に核軍縮を求め、「核兵器なき世界」への道筋をつけることだった。
しかし、INF廃棄条約の破棄をめぐるトランプ大統領の方針で、米朝首脳会談の歴史的意義は大きく減殺されることになった。それどころか「新冷戦」のなかでの次回の米朝首脳会談は、肝心の朝鮮半島の非核化が揺らぐ危険もある。いまや北朝鮮の後ろ盾であることが鮮明になった中ロが、態度を硬化させる恐れもあるからだ。
唯一の被爆国、日本の責任
核軍拡競争が再燃し「新冷戦」の時代が到来すれば、世界は核による大きなリスクにさらされる。世界経済にも影響は避けられなくなる。こうしたなかで、唯一の被爆国である日本の役割は決定的に重要である。
米国の「核の傘」のもとにあるという配慮から、日本が核兵器禁止条約に加盟しないのは大きな問題だ。日米同盟は重要だが、唯一の被爆国としての「地球責任」はずっと重い。核兵器禁止条約にNATO諸国が参加しないことが日本の不参加の理由にはならない。日本はまずこの核兵器禁止条約に加盟することだ。それをてこに、外交の軸を立て直すべきである。
そのうえで、米ロ中に核軍縮を徹底するよう求める必要がある。米朝首脳会談を朝鮮半島の非核化にとどめず、「核兵器なき世界」につなげるうえで、日本の外交力が試される。この欄で再三、問題提起しているが、2019年に大阪で開く20カ国・地域(G20)の首脳会議の機会に、首脳たちの広島訪問を計画することだ。トランプ大統領もプーチン大統領も習近平国家主席も、世界の指導者として核兵器の悲惨さを知るべきだ。唯一の被爆国の指導者として、安倍晋三首相の地球的責任は、これまで以上に重い。
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