サッチャー首相の「鉄の女」ぶりを目の当たりにしたことがある。1980年代はじめ欧州共同体(EC)内では、もめごとが絶えなかった。サッチャー首相のユーロクラート(ブリュッセルのEC官僚)嫌いは有名で、原加盟国の仏独との対立は根深かった。ジスカールデスタン、シュミットそしてミッテラン、コールという強力な仏独枢軸もサッチャー首相の強硬姿勢には手を焼いていた。

 深夜に及んだEC首脳会議が決裂するのもめずらしくなかった。外相を伴って記者会見したサッチャー首相が記者たちの目の前で突然、外相を面罵した。深夜の会見場が凍りついたのを覚えている。外相は辞任に追い込まれる。「鉄の女」の冷徹さを見る思いがした。

 メルケル首相は21世紀の「鉄の女」と呼ばれたこともあるが、「ウォームハート・クールヘッド」という点で、「鉄の女」を超えた存在になったのは間違いないだろう。

人道主義の基盤

 メルケル首相の基盤にあるのは、人道主義だろう。西独ハンブルク生まれだが、福音派の牧師である父が東独に移住したために、東独で育った。この父の影響が大きかったとされる。

 この春、欧州経済共同体(EEC)創設を決めたローマ条約の60周年を記念するEU特別首脳会議がローマで開かれた。筆者はこの首脳会議を取材した。首脳たちはバチカンでローマ法王に接見する。この首脳のなかで、最も緊張していたのは、メルケル首相だった。ユンケルEU委員長のようにローマ法王の肩を抱いて親しみを表そうとする首脳もいたが、メルケル首相はローマ法王の言葉を一言も聞き漏らさないように、背筋を伸ばし、食い入るようにみつめていた。宗派は違っても、宗教界の頂点にいる法王への尊敬の念が表れていた。

 人道主義の基盤があるからこそ、地球環境問題に真正面から取り組める。難民受け入れに前向きになれるのだろう。

受け継がれた「平和の配当」

 もちろん、メルケル首相が「世界の指導者」になれたのは、政治家としての資質からだけではない。ドイツは戦後、幾重もの「平和の配当」を国際社会から受け取ってきた。第2次大戦後、圧倒的な覇権国家、米国が打ち出した欧州復興計画(マーシャル・プラン)は西独経済の復興を起点に西欧復興をめざすものだった。敗戦国に懲罰を与える第1次大戦の戦後処理の失敗を教訓にした。敗戦国はむしろ特別扱いされたのである。

 それを「第1の平和の配当」とすれば、「第2の平和の配当」は冷戦終結によるドイツ再統一である。ドイツ人の悲願は冷戦終結がなければ、いつまでたっても悲願に終わっていただろう。メルケル首相の誕生もありえなかった。