たかが政治団体の名称では済まない。政治家が言葉に対する感受性を失っては資質を疑われる。世界でいま何が起きているかに思いが及ばなかったとすれば、国際感覚の無さもはなはだしい。党名にはならないらしいが、こんな安易な名付け方がまかり通るようでは、国民政党としての吸引力にも支障をきたすだろう。「日本ファーストの会」の旗印のもとに、各党を離脱してまで人材が集まるとすれば、それこそ日本社会に「日本第一主義」が根付いていることの証明になる。

「1億総活躍社会」に潜むもの

 もっと問題なのは、安倍政権が取り組む「1億総活躍社会」に潜む思想である。「1億総」に、戦前の国家主義の匂いをかぎとるという見方もある。そうまでいわなくとも、知らず知らずのうちに日本社会に排外主義がはびこっているのは確かだろう。

 少子高齢化、人口減少社会というこれからの日本にあって、女性にも高齢者にももっと活躍してもらいたいというのはわかる。しかし、この「1億」は基本的に日本人だけを想定しているのではないか。老若男女、日本人だけが生き生きと活躍する社会は異様である。多様な文化が共存する国際社会の常識から大きくかけ離れている。

外国人労働力をどう生かすか

 日本では外国人労働力問題を正面から議論することをずっとタブー視してきた。サービス産業や建設現場などで現実には外国人労働にかなり頼りながらも、制度の保障なき労働を強いてきた。本来、勉学のために日本に来る留学生や技能取得のために来る技能実習生を低賃金の労働力として使ってきた。

 もちろん研究者など高度人材には短期間で永住権を認めるなど変化はあるが、まだまだ壁は高い。看護や介護の分野では、世界中で人材獲得競争が続いている。日本語習得のハードルを下げなければ、人材獲得競争に出遅れるだけだろう。地方再生にも、外国人労働力をどう生かすかが大きな課題になるだろう。

難民問題に背を向けるのか

 世界中で難民問題が大きな課題になっているとき、日本は相変わらず難民受け入れに極めて消極的である。日本への難民申請は2016年、1万人を超えたが、難民認定者数はわずか28人だった。難民問題が深刻化して以来、積極的に受け入れてきたドイツの100万人とは比べようがない。

 メルケル首相の積極的な受け入れ方針はドイツ国内の批判を招いたが、それでもメルケル首相は基本姿勢を変えなかった。そこには、ナチスの人種差別への反省から難民に寛大になったドイツ社会の開放姿勢がある。かつてシュツットガルト市を取材した際、難民キャンプの運営が熱意あるボランティアに委ねられていたのをみて驚いたことがある。行政任せにせず難民受け入れに市民が自発的で、なおかつ重要な役割を担っている。その社会の仕組みがあってこそ、メルケル首相の難民受け入れ方針も可能になったのである。それにメルケル首相の難民受け入れ方針には、優秀な人材としての難民の受け入れは将来の成長につながるという戦略も含まれている。