しかし、リーマン破綻はウォール街の1投資銀行の破綻ではすまなかった。まず、米保険最大手のアメリカン・インターナショナル・グループ(AIG)の危機に連鎖し、シティ・グループの危機にまで波及した。金融と自動車の連鎖からゼネラル・モーターズ(GM)まで巻き込んだ。世界同時株安が進行し、日欧、新興国を含む大恐慌以来の世界経済危機に陥ることになる。そこには、明らかに超大国・米国のおごりがあった。

「ブッシュの戦争」で始まった

 リーマン・ショックの遠因にあるのは、リーマン破綻の5年半前に始まったブッシュ大統領によるイラク戦争である。開戦理由は大量破壊兵器の存在だったが、ついに発見されず、大義なき「米国の戦争」に終わった。その後の中東混迷を深める結果になった。この「ブッシュの戦争」は「第2のベトナム戦争」とも呼ばれる。そのコストは、ベトナム戦争どころではないという計算もある。直接コストに経済的影響を加えると、3兆ドルにのぼるという説もある。

 ベトナム戦争がニクソン・ショックによるブレトンウッズ体制の崩壊につながったように、イラク戦争は世界経済危機を誘発させて基軸通貨・ドルの信認を失墜させた。

 グリーンスパン議長はこのイラク戦争を金融政策を通じて「後方支援」しようとした。イラク戦争は原油高を通じて世界経済に不透明感をもたらした。それを払しょくするために、フェデラルファンド(FF)レート1%という超低金利を長く据え置いたのである。

 長引く金融緩和は、住宅バブルを招く。低所得層の持ち家化を進めていたブッシュ政権の政策と相まって、サブプライム・ローンを膨らませる。しかし住宅バブルの崩壊でサブプライム危機が広がる。複雑化した証券化商品に累積したリスクが顕在化する。それがリーマン・ショックにつながったのである。

巨匠・グリーンスパンの最後の失敗

 1987年から2006年まで長きに渡ってFRB議長として世界の金融市場に君臨してきたグリーンスパン氏はなぜ対応を誤ったのか。就任早々、ブラックマンデー(ニューヨークの株価暴落)を乗り切って以来、市場重視の金融政策を展開してきた。市場との対話によって、市場に政策を織り込ませて波乱を防ぐファイン・チューニング(微調整)の政策手法は絶妙だった。巨匠(マエストロ)の名をほしいままにしていた。

 ウォール街出身らしく「市場の人」とみられていたが、グリーンスパン氏のもうひとつの顔は「政治人間」だった。フォード政権下で米大統領経済諮問委員会(CEA)委員長をつとめて以来、歴代大統領の経済の指南役を任じてきた。

 筆者は当時、日本経済新聞のニューヨーク支局長として、エコノミストとしてウォール街にいたグリーンスパン氏にたびたび会見した。あるとき「ベーカー氏に呼ばれたから」と会見を中座したことがあった。ワシントンの財務長官からの呼び出しだった。

 そんな「政治人間」の本領が、ブッシュの戦争で発揮されたのは歴史の皮肉である。グリーンスパン氏自身が「100年に1度の危機」と呼んだリーマンショックによる世界経済危機は、自らの「最後の失敗」が導火線になったのである。

日本の危機に学べず公的資金ためらう

 リーマン・ショックを引き起こしたのは、もうひとつの要因は米国の「公的資金アレルギー」だった。日本が1997年、金融危機に陥ったのは、「トゥービッグ・トゥーフェイル」(大きすぎてつぶせない)という金融の大原則を守れなかったからだ。危機に際して公的資金投入をためらい、山一証券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行など大手金融機関を相次いで破たんさせてしまった。それは日本の長い「失われた時代」につながる。米国はこの日本の失敗を熟知しながら、その苦い教訓に学べなかった。

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