
貿易戦争を中国、欧州連合(EU)、北米自由貿易協定(NAFTA)など世界に拡大させたトランプ米大統領がついに自由貿易体制の拠り所である世界貿易機関(WTO)からの離脱を示唆した。これは米国主導の戦後体制を自ら葬り去るものである。トランプ大統領はすでに地球温暖化防止のためのパリ協定、ユネスコ、そして国連人道理事会から相次いで離脱し、「国連離れ」を鮮明にしている。西側の基軸になってきた米欧同盟にも亀裂が走る。戦後の国際経済体制を決めたブレトンウッズ会議から74年目の7月、「米国の時代」が終わろうとしている。
ブレトンウッズ74年目の現実
第2次世界大戦末期の1944年7月1日、米国ニューハンプシャー州のマウント・ワシントン・ホテルでソ連や中国も含む44カ国が参加してブレトンウッズ会議が開かれた。ルーズベルト大統領(当時)が会議の開催を呼び掛けたのは、連合軍のノルマンディー上陸作戦の5週間も前だった。米国は勝利を確信し戦後の国際経済秩序を固めようとしていた。
ブレトンウッズ会議は連合国国際通貨金融会議と呼ばれるように、通貨金融の議論が中心だった。金ドル本位制の採用と国際通貨基金(IMF)と世界銀行の創設が決まる。会議を取り仕切ったのは、英国代表の大経済学者、ケインズではなく、米国の経済官僚、ホワイトだった。ブレトンウッズ会議は、英国から米国への覇権交代を鮮明にする場でもあった。
この由緒ある木造ホテルで、ケインズが滞在した部屋をのぞいたことがある。米国の官僚ホワイトに牛耳られた英国の大経済学者は苦々しい思いでホワイト・マウンテンの山並みを眺めていたのではないか。ふとそう思ったものだ。
ブレトンウッズ会議では、IMF・世銀と合わせて「貿易のための国際組織」を創設することでも合意した。保護主義が第2次大戦を招いた苦い経験が背景にあった。この貿易のための国際組織は会議後、「国際貿易機関」(ITO)として詳細が詰められたが、最終合意にはいたらず、結局、関税貿易一般協定(GATT)としてその機能が生かされることになる。
世界貿易機関(WTO)として正式の国際機関になるのは、1995年になってからだ。ブレトンウッズ合意から50年以上の歳月を要したのである。
WTOの悲劇
WTOはしかし、不幸な船出になる。新興国や途上国が勢力を増した結果、先進国だけではほとんど合意できない時代になっていた。多角的貿易交渉はウルグアイ・ラウンドを最後に合意できていない。ドーハ・ラウンドの失敗は日本のサッカーが敗れた「ドーハの悲劇」になぞらえられるほどだ。
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