1990年10月3日のドイツ統一への一里塚として、その年の7月1日、両独の通貨統合が実現した。西独マルクが東独に導入され、東独は統制経済からの西独のような市場経済に転換する。この両独通貨統合の取材のためベルリンを訪れたが、両独の落差はあまりに大きかった。西ベルリンではタクシーにも高級車、メルセデス・ベンツが使われているのに、東ベルリンではタクシーは伝説の国産車、トラバンテだった。尻が痛くなる「ブリキの車」が東独経済の苦境を象徴していた。
東独には西独に飲み込まれていくのではないかという不安があり、西独には東独という大変なお荷物を抱え込むことになるという不安があった。そうした不安を超えて、第2次大戦後、分断されたドイツを再統一するというドイツ国民の悲願を達成することがいかに重要かをこの地味な政治家はよく理解していた。米ソ冷戦終結という好機を逃せば、統一はむずかしくなることもわかっていたはずだ。それに比べれば、2兆ユーロともいわれる巨額の負担も小さくみえたのだろう。
「戦争と平和の通貨」ユーロを創造
コール首相による両独統一という歴史的偉業はしかし、欧州内では強い警戒の目でみられた。「強すぎるドイツ」はかつて欧州の覇権をめざしたナチスを連想させた。そんな疑念を払しょくし、「ドイツのための欧州」ではなく「欧州のなかのドイツ」であることを鮮明に示す必要があった。
ミッテラン仏大統領がコール首相に提起したのは欧州単一通貨構想だった。欧州通貨統合は、長く欧州主義者たちの目標だったが、夢にすぎない面があった。ジスカールデスタン仏大統領とシュミット西独首相が創設した欧州通貨制度(EMS)は参加国に通貨主権は残され、政策協調などで通貨安定をめざす仕組みにすぎなかった。それが米ソ冷戦の終結、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統一という国際政治の激変のなかで、本格的な欧州通貨統合が急浮上することになる。
もちろん、コール首相がミッテラン提案をすんなり受け入れたわけではない。最強の通貨マルクを捨て、最強の中央銀行であるドイツ連銀(ブンデスバンク)を欧州中央銀行(ECB)の一支店にするのには大きな抵抗があった。最も強く抵抗したのは、ペール連銀総裁だった。ドイツ国内では「ブンデスバンクを批判する人が批判される」といわれるほど連銀の信認は高かった。2度の世界大戦によるハイパーインフレの苦い経験から、連銀はインフレ抑制を最重視し、タカ派的な政策運営に徹してきた。それは最強通貨マルクを生み、連銀の信認を高めることになった。
ドイツ国内の強い抵抗を押し切って、欧州単一通貨ユーロの創設に踏み切ったのは、コール首相はユーロを「戦争と平和の通貨」と位置付けていたからだ。2度の世界大戦、そして米ソ冷戦とその終結という「戦争と平和」の歴史のなかで、ユーロは創造されたという認識である。
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