マハティール戦略は、冷戦後のグローバル時代に逆行するものとして国際社会の批判にさらされる。しかし、グローバル資本主義に安易に追従すべきではないとマハティール氏は確信していた。それはアジア主義の政治信条からきていたのかもしれない。

 IMF・世銀主催のセミナーでマハティール氏は「実需を伴わない為替取引は禁止すべきだ」と為替投機に警告した。批判の標的にされたヘッジ・ファンドの帝王、ジョージ・ソロス氏が「そうした考えは破滅的な結果につながる」と反論するなど、グローバル資本主義をめぐる歴史的な論争を繰り広げた。論争に終わりはなかったが、マレーシアがマハティール指令によって、通貨危機を乗り切ったのはたしかである。

建国の父―冷房で生産性向上

 シンガポールがマレーシアから分離独立したのは、1965年である。初代首相に就くリー・クアンユーはいまでこそ「建国の父」と称されるが、建国された当初、シンガポールが東南アジア唯一の先進国にまで駆け上がると予想した人はいなかった。それどころか、英軍の撤退で「シンガポール経済は壊滅的打撃を受ける」と専門家は分析していた。

 そこからがリー・クアンユー首相の手腕である。外資に門戸を開き、多国籍企業を積極的に招き入れる。製鋼、海運など産業創造にも力を入れる。

 そして何より、金融センターをめざしたのである。アジアダラー市場として小さく生んだ金融市場だが、シンガポールが東南アジアの貿易、投資の拠点になるにつれて、国際的金融取引は幾何級数的に増大したと「回顧録」に書いている。ケンブリッジ大学で学んだ経験から、ロンドン・シティーのような金融センターの意義を体感していたのだろう。

 そんなリー・クアンユー氏と懇談するのは記者冥利につきるが、気を付けなければならないことが一点あった。室温の低さである。常温に慣れた身からすると寒すぎる。この点を聞くと、「常夏のシンガポールが生産性を高められたのは、冷房が行きわたったからだ」という答えがはねかえってきた。シンガポールが先進国に駆け上がれた意外な秘密かもしれない。

世界の鳥瞰図示す

 リー・クアンユー氏の話を30分聞けば、世界の鳥瞰図がわかった。これだけ世界の変化を深くかつバランスよく読める政治家は、世界を見渡してそういないだろう。英米だけではなく仏独など先進国首脳に信頼される。華人ネットワークもあり、中国との連携は深い。一方で、台湾との関係も保たれる。日本を中心にすべてのアジア諸国とは親密である。

 徹底したグローバル主義で世界経済のハブになることをめざしてきた。リー・クアンユー氏の広範な人脈なしには、この大目標は達成できなかったはずである。

引き継がれた指導力

 リー・クアンユー氏の政治手法は「開発独裁」と言われることもある。批判を許さぬメディア規制など影の部分があったのは事実だ。グローバル国家にふさわしい言論の自由を確保できるかが課題である。「緑のシンガポール」は美しいが、規則が多すぎて息苦しいという不満も聞く。しかし、美しい都市国家として世界経済のハブの座を維持するには、ある程度の規制は避けられないだろう。

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