(写真=アフロ)
(写真=アフロ)

 投打二刀流で大活躍する米大リーグ、エンゼルスの大谷翔平選手は野球の神様、ベーブ・ルースの再来と言われる。開幕2連勝に3試合連続ホームランと、異邦人どころか異星人と呼ばれるほどだ。これまで米国社会では、ロジャー・マリスにしろハンク・アーロンにしろ、ベーブ・ルースの記録に挑戦した選手は賞賛よりも非難の的にされてきた。それだけに、大谷フィーバーは、米国が懐の深い社会になってきたしるしだろう。

 その一方で、トランプ米大統領の「米国第一主義」は貿易から環境まで世界を危機に巻き込んでいる。トランプ流が通用する米国社会は狭量そのものだといえる。「寛容」と「非寛容」の狭間で、「2つのアメリカ」はどこに向かうのだろうか。

ベーブ・ルースへの挑戦で先人の苦難

 米国社会でベーブ・ルースほど敬愛されている野球人はいない。貧困のなかから野球で立ち上がり、投打二刀流からホームラン王になる。安打製造機、タイ・カッブが「球聖」と畏敬されるのに対して、ベーブの愛称のように、奔放なルースはだれにでも愛された典型的な米国のヒーローである。

 メリーランド州の港町ボルチモアにある生家「ベーブ・ルース博物館」を訪ねたことがある。ボルチモア・オリオールズのスーパースターは連続試合出場の鉄人、カル・リプケン選手のはずなのに、ここでもベーブ・ルースは別格だった。大リーガーとして活躍したボストンやニューヨーク以外でも、ベーブ・ルースは神様だった。

 そのベーブ・ルースへの挑戦には、苦難の道が待ち受けていた。1961年、ニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリス選手はベーブ・ルースが34年間保持してきた年間60本のホームラン記録を破る。しかし、それは非難のなかでの記録更新だった。記録に近づくと、ホームランにもブーイングが起きたほどだ。

 非難の理由は2つあった。ベーブ・ルースへの挑戦資格があるのは、チームメイトで史上最強のスイッチ・ヒッターだったミッキー・マントル選手とみられていた。この生え抜きのスーパースターに対して、マリスは移籍してきたばかりのよそ者とみられていた。「MM砲」といわれながら、大きな差がつけられていた。

 それに、ベーブ・ルースがホームラン記録を打ち立てた当時は、試合数は154試合だったのに対して、162試合に増えていたのである。参考記録にすぎず、公式記録とは認められないとまでいわれた。

 ロジャー・マリスのニューヨーク生活はかならずしも幸福といえず、そのせいか51歳の若さで死去することになる。

 もう一人の挑戦者は、もっと苦労することになる。ベーブ・ルースが打ち立てた714本の通算ホームラン記録に挑んだハンク・アーロン選手である。ジャッキー・ロビンソンによって、黒人大リーガーの道は切り開かれたが、アーロンがベーブ・ルースに挑戦した1974年当時、まだ米国社会には人種差別が根強く残っていた。記録更新が近づくにつれ、いやがらせが頻繁になってきたと自伝「I had a hammer」に書いている。

 通算ホームランは755本に達し、王貞治選手の目標にされたが、そこには人知れぬ苦難の道があったのである。

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