安倍晋三首相が、憲法9条に「自衛隊の存在を明記する条文を加える改正を目指す」との意向を示したのを受けて、改憲論議がにわかにあわただしくなってきた。果たして、どのように改憲すべきなのか。議論は百家争鳴の様相を呈す。「9条は削除してよい」と語る篠田英朗・東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授に聞いた。
(聞き手 森 永輔)
日本国憲法の署名原本。一番右に当時首相の吉田茂、その左に幣原喜重郎の署名がある(写真:毎日新聞社/アフロ(国立公文書館所蔵))
篠田さんは憲法9条を削除してもかまわないとされています。その意図は何でしょう。
篠田英朗(しのだ・ひであき)
東京外国語大学大学院総合国際学研究院教授
専門は平和構築。早稲田大学政治学研究科政治学専攻修了、ロンドン大学(LSE)Ph.D.(国際関係学)。平和構築と法の支配、平和構築と現地社会のオーナーシップ、国際秩序、国家主権、平和構築の政策的課題の研究を中心に、国際社会の秩序や国家主権の問題を研究。大佛次郎論壇賞(2003年10月)およびサントリー学芸賞(2012年12月)を受賞。主な著書に『集団的自衛権の思想史』『国際紛争を読み解く五つの視座』『ほんとうの憲法』など。(写真:加藤康、以下同)
篠田:9条は、先の大戦で負けるまで「ならず者国家」だった日本が、二度と国際法を破ることなく平和国家として歩んでいくことを宣した条項です。日本は満州事変を起こし、第一次世界大戦後の国際的な法規範に挑戦しました。東アジアを中心に空前の侵略行為を繰り返した。このようなことは、もう絶対にしないという1946年時点での宣言です。
その後、日本は戦争を違法とする国連憲章を遵守することを約束し、1956年に国際連合に加盟した。したがって、9条の内容は、国際法を遵守することで確保できることが確定しました。よって削除してもかまわないと考えています。
しかし、既に70年も歴史がある条項で、削除すると政治的なマイナス効果も生じ得るので維持しても構わないと考えています。9条を、政治的な立場に寄ることなく素直に読んで解釈すれば実害はありません。自衛隊を違憲とするような解釈にはなりませんから。
篠田さんは9条をどのように解釈すべきと考えていますか。
第九条
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
篠田:私は、起草の経緯、特に国際法を遵守する国際協調主義に沿って、解釈すべきだと考えています。日本国憲法を起草したのは米国人を中心とする連合国軍総司令部(GHQ)です。日本の憲法学者の中には、国民が「8月革命」を起こし、絶対主権を行使して日本国憲法を制定したと論じ、米国の影響を無視する向きがありますが、それは非現実的ではないでしょうか。国際法とは、不戦条約および国連憲章を指します。
まず9条1項は、日本国憲法前文が掲げる目的「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」を確認するものです。
日本国憲法 前文(抜粋)
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
9条1項の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては」の部分は、1928年に署名された不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)にある表現を焼き直ししたもの。戦争を一般に禁止する取り決めです。国連憲章は2条4項で武力行使を一般的に禁止しています。憲法9条1項の内容は、憲章2条4項の遵守で確保されます。
不戦条約 第一条
締約国は、国際紛争解決のため、戦争に訴えないこととし、かつ、その相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。
国連憲章 2条4項
すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
戦争放棄は、日本国憲法に固有のもののようにいわれますが、そうではありません。日本に限らず不戦条約に署名した国、国連に加盟したすべての国が守るべき国際標準です。日本の憲法学の重鎮だった芦部信喜は「比類のない徹底して戦争否定の態度を打ち出している」としていますが、過度にロマン主義的な言い方です。9条の価値はその特殊性ではなく、軍国主義国家だった日本を国際標準的な国家にするところにこそあったと考えるべきです。
マッカーサーが「交戦権」を入れさせた意図
第2項にある「陸海空軍その他の戦力」は、1項で放棄した「戦争」を実行するための戦力を指します。日本語の条文を読むと、1項にある「戦争」と2項にある「戦力」のつながりが不明確ですが、英文で読むとはっきりしています。GHQが出した憲法草案は、1項の「戦争」を「war」、2項の「戦力」を「war potential」としています。つまり2項でいう戦力は、1項で放棄した戦争を遂行するための戦力を指すのです。
起草者は、憲法の条項を通じて、国連憲章の規定を日本に守らせる枠組みを提供しようとしたのです。
ここで注意を要するのは、「自衛権の行使」は国際法で禁止されている「戦争(war)」ではないことです。国連憲章51条は加盟国が武力を行使できる例外を2つ設けています。1つは「安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置」として認めたもの。これを集団安全保障と呼びます。もう1つは、集団安全保障の措置が講じられるまでの間に取れる「個別的又は集団的自衛」に基づく武力行使です。
したがって、集団安全保障と自衛権に基づく武力行使は1項にある「戦争」に該当しません。9条2項は「個別的又は集団的自衛」を行使するための戦力は否定していないことになります。
2項にある「交戦権」は現代の国際法には存在しない概念です。なぜ、こんな存在しない概念に触れているのか。それは起草者が米国人だからです。
実は戦前には「交戦権」の概念が存在しました。米国は外交戦略としてこれをずっと否認してきました。例えば英国とフランスがナポレオン戦争で争っていた当時、周辺を航行する中立国・米国の商船が英国に撃沈されるケースが頻発しました。戦争中であることを理由に、疑わしきを攻撃しても許される“権利”が交戦権です。第一次世界大戦に米国が参戦したのは、ドイツが米国の船舶を攻撃したからでした。
GHQ総司令官であるダグラス・マッカーサーはこのことをよく知っていたので、憲法草案にこの文言を入れさせたのでしょう。「国の交戦権は、これを認めない」とは、国家の基本権のような現代国際法では遺物となったものを持ち出して周辺国に脅威を与えることはしない、という意味を込めたものです。
これまでのお話をまとめると、こういうことですね。
1)9条1項は戦争放棄。
ただし、国連加盟国のすべてが戦争を放棄している。日本国憲法に特別のことではない。
ここでいう戦争に、集団安全保障と自衛権の行使に基づく武力行使は含まれない。
2)9条2項は、集団安全保障と自衛権の行使のための戦力を否認しない。
3)交戦権の放棄は、戦争放棄を改めて宣言したもの。
篠田:おっしゃる通りです。
憲法起草の目的は、日本が二度と侵略国になることなく、国際法を遵守し、国際協調主義に基づいて行動する国にすることです。この意図と国際法に鑑みて日本国憲法を解釈すれば、上記の解釈になります。
この解釈に基づけば、自衛権を行使する自衛隊が違憲になることはありません。PKO(国連平和維持活動)に参加するために不毛な議論をする必要ありません。何よりも9条の意味は国際法の遵守にある、と理解すれば、国際法に沿った体系的な解釈が可能になり、安定した解釈運用になります。
マッカーサーと幣原の議論の中身は闇の中
起草者の代表であるマッカーサーが、起草チームに宛てた指示「マッカーサーノート」には、自衛権の行使すら認めない主旨の文言があります。
II
War as a sovereign right of the nation is abolished. Japan renounces it as an instrumentality for settling its disputes and even for preserving its own security. It relies upon the higher ideals which are now stirring the world for its defense and its protection.
篠田:どの時点における誰の意図を起草者の意図とするか、という問題です。確かにマッカーサーはご指摘のメモを残しています。しかし、その後、GHQ内で議論され、GHQによる憲法草案には載っていません。それは削除すべき文言だったので、削除されました。成立した憲法典に記されている目的にしたがって、経緯を整理すべきです。
当時の幣原喜重郎首相が9条の原案になるものをマッカーサー氏に提案したとされています(1ページ冒頭の写真を参照)。幣原は不戦条約が定める戦争の放棄を提案したのか。それとも、陸海空軍その他の戦力を放棄すると提案したのか。
篠田:確かに両氏は日本の安全保障について話し合いました。しかし、幣原が何を提案し、どういう結論が出たのかは、もはや確認することができませんね。
9条でした宣言は既に実現した
先ほど言及していただいたように、日本は既に70年にわたって平和国家の道を歩んできています。今から侵略国になることはない。国連にも加盟しました。9条でうたった宣言は実現しました。したがって、9条は既に不要になったということですね。
篠田:そうなのです。9条を全面削除しても何の支障もありません。特に、自衛隊は違憲か合憲かという神学論争の源となってきた2項はなくてよい。1項も日本国憲法前文と重複するので必要ありません。自衛権は、国際法と国連憲章に沿って運用すればよい。
ただ、我々は70年も9条の下で暮らしてきました。今、削除すると「何か下心があるのではないか」といらぬ警戒感を高めてしまいます。なので、現行のまま維持しても構わないと考えています。
米国法では、ある条項を修正した場合、元の条文も残す習慣があります。例えば悪名高い禁酒法。米国憲法にはこの条項も、禁酒法を廃止する条項もあります。こうしておけば、その国が過去にどのような道を歩んできたのか勉強できる。憲法史を学ぶ重要な材料となります。これと同様の位置づけで残しておくのもありだと考えます。
集団安全保障への貢献は政策判断で
9条について、解釈が乱立しています。現行憲法の草案を国会が審議していた1946年当時、共産党は9条を「自衛権を放棄して、民族の独立を危うくする」ものと解釈して批判しました。その一方で、安倍政権は集団的自衛権の限定行使まで可能としている。規範力が弱い。この状態を放置してよいものでしょうか。
篠田:もちろん良くないです。
その意味で、安倍首相が、9条に3項を追加して自衛隊が合憲であると確定する、と提案しているのは妥当なことだと思います。自衛隊は「違憲」と「合憲」の間で解釈が大きく割れていますから。
ただ私は、「自衛隊」に関する規定を憲法に入れるのは本当は反対です。外務省に関する規定が憲法に必要ないのと同様の理由です。通常法で対処すればよい。自衛隊という具体的な組織を、国民が直接的に保持する組織だと、憲法典で規定する必要はない憲法では、一般論として「軍隊」を禁止していないことを確認すればよい。
自衛隊の位置づけを確定するだけで十分でしょうか。
篠田:自衛隊が合憲であるということは、自衛権に基づく武力行使が合憲だということになります。その次に問題となるのは集団安全保障ですね。
国連憲章による安全保障の立て付けは、ある加盟国が侵略された場合に、他の加盟国が共同で対処する集団安全保障が基本です。ただ、安全保障理事会で合意を形成したり、国連軍を組成したりするのに時間がかかるため、その間の限定で自衛権が認められている。ということは、集団安全保障に貢献するのは加盟国の義務です。今の改憲論議では、この視点が欠けているように思います。
篠田:ぜひ論点にすべきだと思います。集団安全保障への貢献が合憲であることを明示するため、私は以下の文言を3項として提案しています。
篠田氏の9条3項案
第2項の規定は、本条の目的に沿った軍隊を含む組織の活動を禁止しない。
「本条の目的」とは、これまでお話してきたように、二度と侵略国になることなく、国際法を遵守し、国際協調主義に則って行動することです。集団安全保障への参加は、憲法問題ではなく、政策判断の問題として議論していくべきです。
また9条にこれ以上の規定を盛り込むのは反対です。不要な解釈論争を再び招くことになりますから。
「集団安全保障への貢献は合憲である」と明示する必要はない。
篠田:私は現行の9条も集団安全保障への貢献を制限していないと解釈しています。あえて入れる必要はないと考えます。
国際政治学者の多くが私と同様の理解をしているのではないでしょうか。安倍首相の諮問機関である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(以下、安保法制懇)」が2014年5月に報告書を出し、軍事的措置を伴う国連の集団安全保障措置についても「憲法上の制約はないと解釈すべきである」と提言しました(関連記事「集団的自衛権行使の歯止めよりも大事なのは日本を『守れるか』」)。私も同じ立場です。
この問題に関しては、政局レベル、もしくは選挙対策レベルの問題が大きいのでしょう。政治家であれば「自衛隊の合憲はいいが、集団安全保障まで合憲なのか」と問われる事態への対応を憂慮するでしょう。改憲の国民投票がより困難になると考えるかもしれません。3項追加案の本当の論争点かもしれません
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