司法独裁の兆候がみえる

三浦さんは統治行為(*)の考え方は必要というお立場ですね。私は統治行為論に違和感を覚えています。次の理由からです。
・日本は議院内閣制を採用している。与党と政府が一体化しているので、議会(立法機関)による政府(行政機関)へのチェックが甘くなる。
・統治行為論を基にした司法判断の回避は、安全保障政策について、行政機関へのチェックを司法機関が放棄するに等しい。
・従って、統治行為論による司法判断の回避が横行すると、安全保障政策において、立法機関および司法機関による行政機関へのチェックが弱くなる。

*:条約の締結や安全保障に関わる政策など高度に政治性を帯びた国家行為は裁判所による司法審査になじまないとする考え方。

三浦:国会は内閣不信任案を提出できます。これは立法が行政をけん制する非常に強力な権限です。米国大統領のように弾劾の手続きを経なくても、衆議院の過半数をもって不信任することができるのですから。

 したがって、立法による行政へのチェックは本来これで十分。しかし、戦争は国の命運を左右します。なので、先ほど「開戦の承認」権限を国会に持たせる提案をしました。立法が行政をチェックする機能を高めたわけです。これは統治行為論が横行し司法による行政へのチェックが仮に甘くなったとしても、立法がこれを補うことができるということです。

立法による行政へのチェックは十分だとして、司法からのチェックはどうでしょう。

三浦:安全保障政策は様々な要素を考慮し、判断しなければならない総合的な政策です。繰り返しになりますが、国の命運を左右する。

 それを、わずかな数の法律の専門家が判断できるでしょうか。できるわけがありません。裁判所は明らかな憲法違反以外は政府の裁量に任せるべきだと思います。そうでなければ、わずかな数の法律家が国家の命運を担うことになってしまう。これは行政府の権限を奪うこと、さらには民主主義の否定につながります。恐ろしいことです。

司法による独裁を招きかねないということですね。

三浦:そうです。現にいま、そういう状態になっていると認識しています。

え、どういうことですか。

三浦:安全保障に関する国会での議論は、質問する与野党議員も答弁する閣僚も最高裁の判事や憲法学者の真似事をしているように見えます。例えば南スーダンに送られたPKO(国連平和維持活動)部隊をめぐって、「戦闘行為とは何か」の議論に終始しました。そこでは「戦闘行為」という法律用語に精通している人が有能とされた。

 しかし、議員の仕事は法律用語に精通することではありません。国民の代表としての常識をもって国益を判断することです。PKO部隊について言えば、撤退することが国益に適うのかどうかを判断すべき。なのに、「戦闘行為」という一つの言葉にこだわり、その言葉の淵源――派遣された自衛官のリスクを軽減する――には思いが至らない。これで、その役割を果たしていると言えるでしょうか。

法律用語に引っ張られて、事の本質が疎かになっているということでね。

三浦:その通りです。法律解釈で安全保障を語ってしまう戦後日本の悪しき伝統です。このような倒錯した伝統を改めるためにも、憲法改正が必要なのではないでしょうか。