稲田大臣は責任を果たさなかった

今日でも、南スーダンに送られたPKO(国連平和維持活動)部隊の日報をめぐって稲田朋美前防衛相と陸上自衛隊との間にあつれきがあり、反論の機会が与えられない陸自に不満がたまっていると言われています。陸自は、日報のデータが保管されていたことを稲田防衛相に2月に報告したと主張しましたが、特別防衛監察案には取り上げられなかった。混乱の責任をとって稲田氏は7月28日に辞任しました。

三浦:陸自としては、特別防衛監察が取り上げない以上、匿名リークに走るしかなかったと考えられます。

 加えて、稲田氏は自衛隊という組織において上司の役割を正しく果たしていなかったのではないでしょうか。本来なら自衛官や防衛官僚を呼んで誰が隠ぺいしたのか究明するべきです。そうしたプロセスをとることなく、特別防衛監察に問題を回してしまった。シビリアンコントロールの観点からすれば防衛相としても失格です。

集団的自衛権は“攻め得”の世界を許さない正義

安倍政権が安全保障法制をめぐる議論を始めて以来、集団的自衛権が注目を集めています。これについて、憲法に規定を設けるべきでしょうか。

三浦:その必要はないと思います。9条2項を削除すれば、憲法解釈をめぐるこれまでの誤魔化しが必要なくなります。個別的自衛権も集団的自衛権も、その時々の国益を守るために適切な政策は何かを考える中で、その是非を政府が決めればよいのだと思います。

 集団的自衛権は侵略を受けた国(A)が、国連軍が到着するまでの間、自国の存続を全うするために認められた権利です。(A)が軍事的に弱い国の場合、国連が動くまでの間に負けてしまいかねません。それでは“攻め得”になってしまう。これを避けるために国連憲章が引き続き認めることにしたのが集団的自衛権=同盟の権利です。

 日本国憲法が定められた当事に比べて日本の防衛力は強くなりました。もはや、守ってもらうだけの存在ではありません。ならば、国連が唱える平和主義に則って、この世界を“攻め得”にすることのないよう集団的自衛権を行使することは、日本の義務になっている部分もあるのではないでしょうか。弱い国を見殺しにしてよいのか、と。

 こうした正義に取り組むかどうかも含めて、国益を追求する選択の中で行使の是非を判断すべきだと思います。憲法によってしばる対象ではありません。

「我々の軍隊は弱いので出せません」はあり

三浦さんは国連が提供する集団安全保障への参加についてどうお考えですか。ご説明いただいたように集団的自衛権は、国連軍が到着するまでの間、行使することが限定的に認められています。集団的自衛権行使の是非を考えるならば、日本は、その前提である国連の集団安全保障に参加することも考える必要があるのではないでしょうか。

三浦:日本が国連安全保障理事会に非常任理事国として席を得ていた時に紛争が起こったとしましょう。これを解決すべく国連軍を組成して派遣すべきか否かの判断に,日本は参加する義務があります。しかし、実際に軍を派遣するかどうかは、独立国として主権に基づいて判断することができます。

 「我々の軍隊は弱いので出せません」とか「我々は民主国家で、戦死者が出た場合に国内世論を納得させることができないので出せません」というのは認められるのです。

ずいぶん都合のよい話に聞こえます。

三浦:確かにそうです。身勝手に聞こえるかもしれません。でも、それが現在の国際社会の在り方です。それに、私たち先進国はその分、国連に資金を拠出しています。

集団安全保障への参加も、憲法で規定するものではなく、国益をふまえて政策として判断すべきということですか。

三浦:はい。そして、その国益の中には、9条1項が定める平和主義の考え方も含まれるということです。