武力行使を乱用しない歯止め

政府はなぜ組織的・計画的なものだけを武力攻撃としているのでしょう。

香田:「好んで戦を求めることはしない」という考えからです。つまり武力行使の乱用を防ぐため。

 かつては、国境警備兵が1発撃った――というささいなことを口実に、大国が小国に攻め込んで侵略することがあった。そういう事態を起こさないようにという諫めです。

 正確な表現は忘れましたが、米国も自衛権を発動する要件を定めています。合衆国国民、もしくは財産、施設に対する武力攻撃は合衆国に対する攻撃と見なす、というようなものです。米国も、考え方としては「武力攻撃」を組織的・体系的なものと捉えているでしょう。しかし、我が国のように、上で述べた要件に政府解釈などを追加して、自らの判断や自国軍の活動を縛ることはしていません。攻撃してきた相手がどのように動くか分からないからです。

 極端な例ですが、攻撃側が我が国の厳しい武力攻撃の定義や武器使用要件を熟知していた場合、散発的攻撃などの戦術をとることも考えられます。時の政府の立場によっては自衛隊に対する防衛出動が出せないこともあり得ます。この場合、相手側は、防衛出動が出ない自衛隊をしり目に、全く反撃を受けることなく、安全に日本を攻撃することができる事態もあり得ます。

 諸外国は、このような信じられない事態を防止するために、大原則は保ちながら、過度の「縛り」はかけていないのです。要するに、相手の動きに応じて柔軟に動けるようにしている。

 こうした歯止めがかかっているのは、理論の世界としては美しい。ところが、現実との間にはギャップがある。日本は戦後、戦争したことも、弾を撃たれたこともなく、美しい理論の世界に生きてきました。それゆえ「この攻撃は組織的か」という神学論争をするいとまがあった。しかし、現実はそうではありあせん。

核保有国が撃つミサイルは組織的かつ計画的

こうした状況を改めるには、どうすれがよいのでしょう。

香田:これまでの考え方を変える必要があります。ただし、これまでの定義や解釈を現実に変更することは難しい。自らの武力攻撃行使の根拠となる、相手の武力攻撃態様は組織的・計画的なもの――という定義は論理的には正しいからです。だから本来なら、そんな定義をするべきではなかった。「論理的に正しいものを、なくせ」と言ってもなくせるものではありません。ただし、「組織的・計画的」という定義の解釈の幅は相当大きいのもまた別の事実です。

 だから、現実解としては、そのときのリーダーが「これは1発でも、組織的・計画的だ」と言い切ることです。核弾頭がもたらす被害の深刻さを考えれば、核保有国から飛んでくるミサイルは「核兵器を搭載している」とみなして対処すべき。核兵器が相手国に対する致命的な殺傷力を持つことを考えれば、①当該国による弾道弾攻撃は核搭載ミサイルを前提、②そうであるがゆえ、単発の攻撃であっても組織的かつ計画的とみなす、というのが妥当です。ゆえに「1発であっても、組織的・計画的というカテゴリーに当てはまる」とする。

 北朝鮮が核保有国かどうかとは別として、限りなく保有国に近いという認識に立てば、我が国防衛上からは、核保有国と同等として同国に対処すべきです。