「ロボットがメインっていうけど、お店では、店頭対応以外に、在庫管理や発注、新商品の企画とかもやっているんだよ。あなたたちみたいに、それだけやっている訳じゃないの。そういうことわかっている?」

 咲間は、言葉に窮しながらなんとか答えた。

 「え、あ、はい。ただ、新規事業は、なるべく早くはじめて、失敗を重ねるのが大事だって。それがセオリーだって。だから、たくさんのお客様やお店の従業員の皆さんのフィードバックをもらいたいんです」

 あくまでも事業推進の立場を崩さない咲間に対して、中島は、諭すように語り始めた。

 「咲間さん。ちゃんとわかっておいてもらいたいんだけど、ラボが出島だからって、何やっても許されるってわけじゃないんだからね。僕たちも、新規事業はやらなきゃと思ってるし、できる限り協力をしてあげたい。だけれど、一方で目の前のお店の運営もちゃんとやらないといけないんだ。それにこの話は、期初の計画にもなかったことだし、そもそも今の時点で、誰も知らないことだから、ここからリソース調整をするのも、かなり大変なんだよ」

 「好き勝手に進めたいって、そういう意図ではないから、皆さんに相談しているんです」。思わず口にしかけた言葉を飲み込み、咲間は、「すみません…。そんなつもりじゃないんです」と、絞りだすのが精いっぱいだった。

「既存事業の現場巻き込みは、対象を絞り、硬軟織り交ぜ、早期に成果を」

 企業が新規事業を立ち上げる場合、必ず直面するのが既存事業とのコンフリクト(摩擦や矛盾)の問題だ。まして、店舗や工場設備、顧客基盤など、既存事業が保有する経営資源の一部を借用し、事業シナジー(相乗効果)を狙うような新規事業の場合には、些細なことも既存事業部門との間でもめごとになる。

 そのため、新規事業の立案と実行のプロセスのどこかで、既存事業部門のメンバーを巻き込んで進めることが必要になってくる。たいていの場合、まずは既存事業部門の意思決定者の承認を得てから現場のスタッフに声をかけて実務レベルの作業に巻き込んでいくことになる。巻き込む人数が増えるほど新規事業の成功確率は上がるものの、一方で新規事業の成功に向けて彼らに動いてもらうことの困難さも高まる。

 特に、実験の初期段階であまり多くの組織やメンバーを巻き込もうとするのは危険だ。新規事業のためではなく、既存事業のために動くメンバーがプロジェクトの多数を占めれば、しだいに既存事業の論理が幅を利かせるようになり、新規事業推進の熱量自体が落ちてしまう。

 事業の初期フェーズで巻き込むメンバーの数や組織・部門の数は、中期以降のフェーズとは明確に異なる。その時間的変化とそれにともなう社内戦略の切り替えのタイミングなどは、慎重に想定しておく必要がある。

 初期の段階で巻き込み、共に推進していく人材は、 現場を動かせる中堅層のキーパーソンであり、新しい取り組みに前向きで、柔軟性が高いといった要件を備えていることが望ましい。まずは、その方々にのみフォーカスし、個別に声がけをしていきたいところだ。

 既存事業の組織やメンバーを巻き込む際の方法にも、十分注意を払うべきだ。それが何であれ、新しい取り組みというのは既存事業の人々にとっては、「想定していなかった」、「唐突に発生する」ものである。従い、既存メンバーも、何らか協力をしたいという気持ちはありつつも、リソース提供には四苦八苦せざるを得ず、既存の仕事の業務目標、状況が頭をよぎるというのが現実だろう。

 会社はそういう仕組みで動いているので仕方ない。加えて、基本的に人間は、新しいこと、未知なことに対しては、 変わらないことへの誘惑、違和感の表明に傾きがちであるという性質を理解しておくことも、新規事業推進を担う立場のリテラシーとして必要だろう。その状況や性質を十分に理解せずに、単に「やることになったから」、「忙しいところ悪いけど」といった言い訳を並べるだけでは、折角の既存事業のメンバーのやる気を削ぐことになる。

 そこでまず必要なのは、新規事業の意義や全社的に目指すビジョンをきちんと共有し、新規事業に協力することが組織全体の中で評価される行為だということを実感してもらうこと、その上で、なぜ、その人と一緒に進めたいのか?の、個別理由をしっかりと伝えることだ。

 これが新しい組織風土、文化創りの出発点になる。この非公式だが、チャレンジングな想いを持つ集団が、互いに手を携えながら縦横無尽に組織を動かしながら成果を出し、徐々に拡大していくことが理想だろう。

 その際、個人の意欲や想いのみに頼るのは、どうしても限界が来るため、仕組みも整備していきたい。例えば、既存事業部内の協力者に対して実際に既存事業の側からも評価を受けられる仕組みをあらかじめ設定しておくことが望ましい。役員など上長からの承認だけでなく、新規事業に協力するメンバーに対して付与されるインセンティブ、たとえば人事考課への加点やプロジェクト参加に対する手当、業績表彰の対象となるなどを明確にしておくことも必要だ。

 同時に、既存事業の組織に対しては、新規事業の立ち上げの際に想定されるさまざまなKBO(主要な事業目標)やKPI(主要業績評価指標)のうち、既存事業の協力によって達成される項目のいくつかを業績の評価KPIに追加するなどの取り組みも、経営レベルでの推進の意思決定の中に含めておくべきだろう。

 もちろん、これらの仕組みは、最初に述べた新規事業の意義や会社全体が目指すビジョンの共有と浸透、その実現に対して自発的に動く個があってこそ、効果を上げるものだ。会社のビジョンの打ち出しとその共有は、経営トップが担う役割である。

 日本の企業は多くのことを現場の自助努力に頼りがちであるが、こういった変革や創造には、経営トップの強いメッセージが大きな推進力になることは改めて強調しておきたい。