「もちろん、実際に商品を購入する段階ではそういうお客さんも多いと思いますが、このアプリはその前段階で『どんなデザインの商品が良いかを簡単に比較・検討する』、あるいは『購入した商品を記録して、それらを組み合わせた全体デザインを確認する』という、これまでユーザーがやりたくてもできなかったことを実現するものです。その意味で、実際のお店で選んで買いたいというお客さんにこそ、使ってもらえるアプリだと思います」

 質問した役員は納得した表情だったが、横から文具事業担当の役員が割って入った。

 「僕もアプリは面白いなと思いましたが、たくさん質問があります。これ、相当たくさんの商品をデータベース化しないと、機能しないのでは? すべての取引先とは言わないまでも、メジャーなところは押さえないといけませんが、それはできるんですか? 商品サンプルをすべて撮影しなければいけないんですよね?」

 「そうですね、大手住設メーカーにデモを見せたところ、興味を持っていただきました。商品の撮影は人手をかけてやっていく必要がありますので、地味な作業になりますが」

 黒崎がそう答えたところで、質疑応答は時間いっぱいとなった。浅沢が、社長の山崎に水を向けると、山崎は椅子から少し腰を浮かせて役員メンバーを見渡した。

「質問攻め」の行く先

 「役員の皆さん、いろいろと意見をありがとうございます。皆さんの意見を踏まえた今後の事業の扱いは、浅沢君に一任したいと思います」

 とだけ言って、着席した。

 プレゼンを終えた内川と黒崎は、すっかり意気消沈して役員会議室を出た。そこに浅沢が追いかけてきて、2人の肩に手を置いた。

 「内川さん、黒崎さん、大変だったと思うけど、今日はお疲れさまでした。さっきの役員さんたちの質問は、実は全部想定内。気にしなくて良いからね。さあ、いよいよこれからです。まだ、何も始まってないし、新規事業に終わりはないですからね」

「スタートアップとの新規事業はトラクションを共通目標に」

 ケース後半の役員との質疑をどのように読み取っていただけただろうか。大企業における新規事業の評価軸は、多面的で高い基準が求められる。ケース中の役員からの質疑は、その代表的なコメントだ。実現性、供給責任、収益性、リスクに対する問いである。「具体的に何をどのように進めるのか?、本当にできるのか?」「売り上げ、利益の計画は?どれくらい見込めるのか?」、「既存事業やブランドへの影響、業界慣習に即しているか?」といったものである。当然ながら、新規事業を企画する上では見逃せない論点ではあるが、基準が高い。新規事業であってもブランドある大企業が提供する上で、高い品質とオペレーションが求められ、収益目標も高い。さらにはリスクも少ないことが求められる。その前提は、「失敗しないかどうか」ではないだろうか。

 一方、スタートアップはいかに早く商品、サービスを顧客に届け使ってもらうかを第一の基準に置き、新事業を計画する。その精神は「早く試して失敗し、早く修正する」だ。このギャップを認識した上で、まずは目標を揃えることから始めることが必要である。トラクションという考え方がある。トラクションとは、事業成長を牽引する兆しと定義され、顧客ニーズの有無を定量的に測定する指標で表わされる。ビジネス特性によってトラクションは異なるが、たとえば、アプリであれば、人気ランキング順位、ダウンロード数、期間での利用者数(月単位であればMAU:Monthly Active Useres、日単位であれば、DAU:Daily Active Useresとなる)などである。すぐに売り上げ・利益に直結しない新規事業だからこそ、試行段階の製品・サービスが、顧客ニーズにフィットしているか? を指標化し、検証し素早く修正していく必要がある。

 そうは言っても既存事業と基準や目標を揃えることは難しい、と声が聞こえてきそうだ。仕組みとして担保するには、別組織として切り離すか、社長直轄組織で、既存事業の価値基準を持ちこまない意思決定プロセスをつくることも必要であろう。今回のケースでは、あえて古参の役員という既存事業の評価軸の人たちの中で新規事業をプレゼンさせ、その違いを表面化させたうえで今後の意思決定プロセスを切り離すことを狙った、山崎と浅沢の策略だったようだ。実際、デジタル新規事業の立ち上げは、既存事業と切り離した「出島」と呼ばれる別組織で行われる。サプライズ社も、まさにそれを目指したものと言えそうだ。