京都を発信地として企業のことや京都人のモノの見方などを綴る
突然であるが、ベストセラー本『京都ぎらい』(朝日新書)をお書きになった国際日本文化研究センター教授の井上章一先生は、私の母校である京都市立嵯峨小学校の、20期上の大先輩にあたる。本書の書き出しは「京都にはいやなところがある」である。
京都人は自負心が強い。私は井上先生のこの言葉を、反語として捉えている。「京都にはいやなところがある。しかし、京都ほど素晴らしいところはない」
私は今年4月、東京生活を終えて、京都にUターンした。大学進学時に上京し、新聞記者、雑誌記者を経てこの度、家族を連れて実家に戻ってきた。東京生活に疲れた、というのも正直なところではあるが、実は実家が寺で、寺の後継におさまる準備に入らねばならない。東京生活はそれなりに謳歌したが、ついに年貢の納め時、というわけだ。
手前味噌ではあるが、自坊は恵まれた立地環境にある。世界遺産の天龍寺に隣接し、ちょうど、竹林のトンネルのすぐ脇にある。近隣には嵐山・渡月橋、大河内山荘、常寂光寺、落柿舎などの観光名所が点在している。
しかし、ハッキリ言って、うちは大した寺ではない。
檀家も少なく、拝観寺院でもない。お寺の世界には「肉山骨山」という呼び方がある。肉山とは、多くの檀家を抱え、また、納骨堂や不動産などで潤っている寺院を指す。いっぽうで骨山は、肉山とは対照的に、兼業していかねば食えない寺、ということになろう。うちの寺はもちろん、後者にあたる。
それでも私が寺に戻る決心をしたのは、最期はこの麗しき京都の景観の中に埋もれたい、と考えたからだ。
本コラムでは、ここ京都を発信地にして、京都の企業のことや京都人のモノの見方、歴史文化の話などを、仏教者+ジャーナリストの立場で綴っていきたいと思う(ネタに困った時は、若干、コンセプトから逸脱するかもしれないが、お許しいただきたい)。
少し、私の専門分野について述べたい。
私は2015年に上梓した『寺院消滅──失われる「地方」と「宗教」』(日経BP社)を皮切りに、これまで宗教と社会のかかわり、日本人の死生観の変化などのフィールドワーク調査と研究をしてきている。
たとえば、日本に点在する寺院はどれだけあるだろう。よく例えられるのは、コンビニエンスストアの数との比較であるが、コンビニは5万5000店。寺は7万7000寺。寺のほうが2万以上も多いのは、意外かもしれない。
しかしながら、その寺がどんどん「消滅」しているのである。2040年には全国の寺院のうち35%が消えてなくなるとの推計がある。理由は、都市への人口の流出、少子高齢化である。地方問題を論ずる時、実は寺の実情とダブらせるとわかりやすかったりする。
今春からは東京農業大学の教壇に立つことにもなった。ここでは、「農業と仏教」というテーマで主に大学1年生を相手に、一般教養の授業を受け持っている。たとえば、いろんな作物の種は中国から僧侶が持ってきたり、農村のコミュニティーはムラの中の寺が中心であったり、各種祭りは農村の結束を強める要素も多分にあった。
このように、仏教の視座を交えながら、現代社会におけるミクロ、マクロの問題をとらえていきたいと思う。
では、本コラムの第1回目に入ろう。
私が京都に引っ越し、荷ほどきや諸手続きで忙殺されていた最中「京都政界のドン」「影の総理」などと呼ばれた、元官房長官の野中広務さんのお別れの会に参列した。野中さんのお別れの会を題材にして、昨今の葬送の変化について綴っていこうと思う。
野中さんは今年1月下旬に92歳で亡くなり、お別れの会は4月中旬に京都駅ビルにあるホテルグランヴィア京都にて執り行われた。
「京都政界のドン」「影の総理」などと呼ばれた野中広務氏のお別れ会
私が新聞社の政治記者だった2000年代初頭、私は何度か野中さんに取材をさせていただいた。折しも小泉純一郎政権時、抵抗勢力の急先鋒だった。世間の風当たりが強まる渦中にあって、単独インタビューに応じてくれたことが印象に残っている。
「国家国民のためならば、私は喜んで悪役を買って出よう」
頭のてっぺんから発せられるようなあの甲高い声で、そう語気を強めた野中さん。今の政治家にはない、強烈な凄みがあった。
対して、お別れの会に出席した安倍晋三首相の「追悼の辞」は、どこか白々しさが漂っていた。
「戦争を知る世代がひとり、またひとりと旅立つ今、ややもすれば我々は平和の尊さをあたりまえのものとして受け止めてはいないでしょうか」
野中さんの御霊が会場のどこかに漂っていたとしたならば、きっと、「何をいい加減なことを」と怒ったに違いない。
「今一度先生のご遺影を仰ぎ見、どうか先生の御霊の安らかならんことを」
そう述べた首相が遺影にむかって合掌する際、首相が思わず数珠を落としたのを私は見逃さなかった。
3000人の関係者で埋め尽くされた大会場
会場であるホテルグランヴィア京都の大宴会場は3000人もの関係者で埋め尽くされた。
実は、野中さんの「葬儀」はすでに親族のみで行われていた。それは密葬(家族葬)という形式で実施された。よほど近しい関係者も、密葬には参列できなかったと聞く。鬼籍に入って78日後、改めてホテルでのお別れの会という形式で実施されたわけだ。
白菊で埋め尽くされた祭壇には野中さんの大きな遺影が飾られていた。そこに弔問客がひとりひとり、献花台に花を添えていく。野中さんと関係のあった政財界人、文化人らが在りし日の野中さんに思いを馳せ、しみじみと合掌していた。
だが、おそらく会場の多くの人は気づかなかったのではないか。そこに野中さんの骨箱がなかったことを。
それだけではない。読経をする僧侶の姿もなかった。作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが法衣姿で参列していたけれど、それはあくまでもいち弔問客として参加していただけであった。
つまり、お別れの会は、宗教色・慰霊色を排した葬式なのだ。喪服以外のビジネススーツで訪れる弔問客も多かった。亡くなって3カ月近くが経過していたので、そこに湿っぽさはあまり感じられなかった。むしろ、野中さんとの思い出話に花を咲かせ、本当の葬式ではタブーとされる「笑顔」や「笑い」もそこここで見られた。
いまや、著名人であっても、その死後の送り方は密葬が主流になりつつある。そして数カ月後にお別れの会を開くのである。だが、お別れの会はこの数年ほどで急激に、著名人の葬送のスタンダードになってきている。
例えば、芸能人の葬式ではおなじみ、青山葬儀所(東京都港区)における葬儀とお別れの会の実施状況を見ればよくわかる。
私は過去に青山葬儀所における著名人の訃報記事に注目し、その記事数をカウントしてみたことがある。葬式の実数ではないがひとつの参考にはなるだろう。青山葬儀所での一般葬のピークは1985年から89年にかけて。
逆転した一般葬とお別れの会の実施数
しかし、バブルが崩壊すると一般葬の数は右肩下がりになり、2005年以降は一般葬とお別れの会の実施数が逆転していた。著名人であっても一般的な葬式を開かなくなっているのだ。野中さんのように、先に密葬で済ませ、その場に弔問客は呼ばない。
著名人の場合はまだ、お別れの会という場を設けて、その死を公にする機会がある。しかしながら、一般人の葬送に目を転じれば、家族だけでお別れを済ませておしまい、という簡素な葬送のスタイルが主流になりつつある。
とくに都市部で働くビジネスパーソンの多くは、最近、社員がらみの葬式に出席した人はどれだけいるだろう。上司や、同僚の両親の葬式に参列したり、受付の手伝いをしたりしたことを最近、経験しただろうか。
会社の掲示板の訃報通知には、昨今、決まってこんな文言がさらりと添えてはいないか。
「通夜・告別式は近親者のみで行います。香典や供花は謹んでご辞退申し上げます」
私もかつては上司や上司の親族の葬式の折に、受付などを手伝った経験がある。2000年代初頭までは会社の掲示板に訃報記事が張り出されていて、常に社員がらみの訃報を目にしていたものだ。しかし、そのうち訃報通知は社内の電子掲示板に移行した。
すると、能動的に訃報記事を見にいかねばならないため、ほとんど社員仲間の訃報を知ることがなくなった。
私は会社を退社する前、ここ3年分の訃報通知をカウントし、解析してみた。すると、およそ95%の社員がらみの訃報が「家族葬」か「直葬」であった。実際、都心部では家族葬と1日葬を合わせて全体の5割、直葬は3割以上を占めているとの調査報告もある。
たしかに、私が社員の葬式に参加したのは2006年ごろが最後だったように思う。これは、東京都心における企業であれば、みな、同じ現象ではないかと思う。
死が告知されない弊害とは?
しかし、死が公に告知されないことでの、弊害もあるだろう。
たとえばこんな情景を想像してほしい。
デスクの前の同僚が黙々と仕事をしている。彼が、本日が親族の密葬なのだということを同僚は誰も知らない。葬式の告知をしていないので、周囲の同僚は誰も気づいていないのだ。翌日も普通に出勤してくる。
そんな悲しい状況が、あなたの周りでおきているかもしれない。
就業規則で定める忌引きは、配偶者の場合10日間、父母の場合7日間であることが多い。しかし、規定どおりの忌引き日数を休んでいる人があなたのオフィスで、どれだけいるだろう。これは働き方改革の流れの中でも、きちんと論じられるべき問題だと思う。
社会全体に葬送の簡素化が広がると、いずれやってくる自分の身内の死にたいして、きちんと看取ることさえ憚られる心理状態になる。それはとても残酷な社会だと言わざるを得ない。
この薄葬の潮流は、東京都心から中核都市、そして地方へと順次、波及している。私は地方に赴いた際に、葬送の形態について僧侶などに聞き取り調査をする。
すると、「最近、家族葬が増えてきました。まだ直葬は経験していませんが、近い将来はどうなるかわかりません」などと教えてくれるケースが増えてきた。
葬式の簡素化の背景には、葬式コストの問題、高齢者施設生活が長引いたことでの地域社会との隔絶、など、理由はさまざまあるだろう。
それでもあえて言いたい。
死は公にすべきである。社会というつながりの中で、死を後世に伝えるのは、残されたわれわれの義務だと思う。とくに子供たちに、リアルな死の現場を経験させることは、何にも代え難い教育になる。
死に対するリアリティが失われれば、畏れ知らずの社会になることだろう。死は、公共性を帯びていることを肝に銘じたい。
ファンの記憶に刻まれた葬儀・告別式
5月16日、昭和のスター西城秀樹さんが亡くなったことは記憶に新しい。青山葬儀所でその10日後、お別れの会ではなく、葬儀・告別式が執り行われたのは、近年の傾向からみると意外であった。そこには、ファン1万人が長い列をつくった。
悲しみと同時に、記憶が永遠に刻まれた瞬間であったと思う。
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