ロンドンを中心に、モスクワ、ウクライナなど2年半の放浪を終えて帰国する。

 成田空港に着き、東京に向かう車窓から見えたのは、無機質なプレハブが建ち並ぶ風景だった。文化や伝統は消し去られ、慌てて作ったような箱が延々と続く。どうして、こんなことになったのか。涙が頬をつたった。

古典への回帰

 帰国後、家もカネもない。半年間、浜松の自動車工場に住み込みで働き、まとまったカネを手にして中央線の西荻窪駅にアパートを借りた。原宿で広告デザインの仕事を得たが、激務で家にも帰れない。3年がたった2008年、その生活に見切りをつけるため、職を投げ捨てた。

 久々に自由な時間を手にすると、「それをドブに捨てよう」と考えた。そして、昼間から浅草の寄席に行くことにした。つまらない落語を聞いて1日を費消しよう、と。だが、開始から30分とたたないうちに、その世界に引き込まれた。夜、バンドのメンバーに電話して、こう命じた。

 「日本人として古典落語の1つぐらい出来なければダメだ。1カ月後の文化の日に、全員が落語を披露するように」

 11月、10人ほどだったメンバーが集まり、練習してきたネタを披露した。それぞれの個性と古典落語がからみ、思いのほか面白い。そこで、年末にもう一度、飯田の自宅で落語会を開くことになった。その話が人づてに広まって、当日、40人近い人が集まった。

 その中に、美術評論家の福住の姿もあった。到着すると、6畳の部屋にパンクの格好をした男女がタバコをふかしながら酒をあおっていた。だが、高座が始まると話芸の魅力に惹かれた。

 「それまで、一度も落語を生で見たことがなかったが、それぞれの個性が立っていて、思いが伝わってきて面白い。そこで、少し広い会場を借りて、彼らに落語を披露してもらった」

 福住は、彼らが持つ芸術への「革命性」を見いだしていた。当時、『今日の限界芸術』を出版した直後で、哲学者・鶴見俊輔の『限界芸術論』を継承し、現代の芸能・芸術の世界に当てはめる論を展開していた。

 鶴見は、純粋芸術と大衆芸術、そして限界芸術という3つの概念を打ち出していた。プロが作ってプロが受け取るのが「純粋芸術」。一方、専門的芸術家(プロ)が企業家と連携して作り、大衆に供給するのが「大衆芸術」。それらに対して、アマが作ってアマが受け取るのが「限界芸術」とした。

 そして福住は、限界芸術論のポイントを、「純粋芸術=戦後現代美術を標的とした大衆の叛乱、すなわち民衆蜂起だったのではないでしょうか」と読み解く。そして、「すべて芸術家は本来、限界芸術家だ」とも喝破する。

 落語に傾倒していた頃、切腹ピストルズの音楽性やスタイルにも大きな変化が見えていた。歴史をテーマとした曲が増えていく。南京大虐殺、真珠湾攻撃、三島由紀夫……。そして、日本古来の服装である野良着で生活し、ステージに上がるようになっていく。そして、和楽器にも着目していた。

 「50歳か60歳になったら、生の和楽器でやったら超かっこいいだろうな」

 その構想は、2011年、予定より早く実現することになる。3・11で原子力発電所の事故が起きて、未曾有の被害をまき散らした。

 電気がなければロックバンドの楽器はならない。だが、電気を付けろと言ったら、「原発が必要だ」と言われる。そこで、洋楽器を捨てて、全員が和楽器に持ち替えた。

 その年の秋、原発事故現場から20キロの場所に向かった。立ち入り禁止の看板の前で演奏すると、5~6人の地元の老人が集まった。まだ曲も未完成に近かった。

 「和太鼓を鳴らせば、少しは放射能が薄まるだろう、と応援に来ました」。そう言って、原発批判を叫びながら太鼓や鐘を鳴らした。老人たちは「ありがとう」と言いながら、手を叩いて喜んだ。

和楽器を手に町を練り歩く
和楽器を手に町を練り歩く

 和楽器を手にした当初は、腰が引けた。伝統があり、堅苦しいイメージがあったからだ。普通なら、和楽器には流儀や型があり、師範に教えてもらって、お墨付きをもらう。だが、思い直した。落語もそうだったが、事前に知識や技術を習わなくても、思うように楽しめばいいのではないか。伝統と格式を守ろうとするから、敷居が高くなり、参加者が減っていく。

 「和楽器を泥だらけの地べたに引きずり下ろそうと思った。そっちの方が本来の形じゃないか、と」(飯田)

次ページ 芸能の本質に迫る