中央線、中野駅から北に15分、早稲田通りに近い4畳半2間のアパートに、両親と3人で住んでいた。父は戦後、シベリア抑留から帰国するが、時代に適合できなかった。定職につかず、たまに住み込みの仕事で地方に出かけるが、しばらくして辞めて戻ってくることもあった。そして1部屋を占拠し、昼間から酒をあおって暴れた。そんな不安定な生活を支えるため、母は夕方からスナックに働きに出ていた。
午後6時半、母は店に出るために化粧を始める。急に不安に襲われ、泣きながら見送った。父がいれば、暴力の恐怖に晒される。出稼ぎで地方に行っていれば、一人で過ごす夜を迎える。

父と一緒の旅行は2回しか行ったことがない。その写真を見ても、どこに出かけたのか思い出せない。その穴を埋めるかのように、母は飯田をあちこちに連れ出した。中でも映画とその音楽は強く記憶に焼き付いている。小学校低学年の時、テレビで「未知との遭遇」の予告編が流れた。暗闇を走る映像は、大音響とともに終わる。興奮し、母に観に行きたいとせがんだ。新宿・歌舞伎町の映画館での衝撃が忘れられず、音楽が頭の中で響き続けた。夜、アパートの窓を開け放ち、小さな電子オルガンを弾きながら、見知らぬ惑星に思いを巡らせた。
父の自死とパンクロック
小学校を卒業する頃のこと、父が出稼ぎ先の職場でけがを負い手術する。それが治っても、体のあちこちの痛みを訴えて病院を転々とするが、病名が分からない。体力が落ちて暴力こそなりをひそめたが、奇行が激しさを増していった。
中学に入ったある夜、台所で物音がする。そっと覗くと、父がガスの元栓を開けて、点火しようとしている姿があった。身の危険を感じた飯田は、父を力づくで抑え込むようになる。部屋を仕切る襖にガムテープを張り、入れないようにした。
ある晴れた午後の昼下がり、学校から帰ると自分の部屋が開かない。おかしいと思い、外に回って窓枠を外してみると、父が首を吊っていた。欄干にステレオコードを巻きつけて、飯田が作ったばかりの踏み台を使ってのことだった。
半狂乱になる母を横目に、ついに平和な日々が来る、という思いがしみてきた。だが、高校受験を控えた時期の出来事に、同級生の言葉が心を逆撫でした。「オレがその立場だったら、高校に行かずに働くな」。そう言った生徒を殴り倒した。そんな葬儀のさなか、あまり会ったことのない叔父が近寄ってきた。「ちょっと、メシでも行こうか」。そう言って、2人で出かけ、寿司屋に入った。話はやはり、進路のことだった。
「こうなってしまうと、お母さんのために働こうと考えるかもしれない。だけど、親孝行って、親にどれだけ心配をかけるかなんだよ。親は心配する方がうれしいものなんだ」
その言葉に救われた。判断に迷いそうになると、思い出す「支え」となった。「その言葉通りに徹底的にやって、今に至りました」
地元の都立高校に進学し、そこでパンクに出会う。セックス・ピストルズのベーシスト、シド・ビシャスに傾倒していった。バンドを組むとベースを担当。高校卒業後は、グラフィックデザインを学ぶために都内の専門学校に通った。そこに、ピストルズのアートデザインを手掛けたジェイミー・リードがワークショップで来日した。
髪の毛を逆立てたパンクロックの出で立ちで現れた生徒に、リードが興味を抱く。コピー機を使って切り張りする作業を通じて距離が縮まった。リードは飯田にこう繰り返した。
「最初のアイデアを忘れてはいけない。発展していっても、どうリンクさせるか常に考えるんだ」。リードは帰国後、日本のワークショップの代表作として飯田の作品を選んだ。
「日本って何だ」
パンクロックを演奏しながら、飯田は当初からその枠組に満足していなかった。殻を破る新しい音楽はないのか。常に苛立ち、ケンカが絶えない。そうした中で、飯田は拳を交えた男たちと結びついていく。反骨のバンドとでも言おうか。
日が沈む頃、阿佐ヶ谷のロックバー、rickyは、様々なジャンルのロックを流す。それに合わせて客がなだれ込む。その日、日本のパンクバンド、アナーキーの曲が鳴り響く中、飯田は地下に降りて行った。店の真ん中で4~5人が暴れている。頭にきて大男の首をつかんで投げ飛ばした。そこから今につながるバンドが2人を中心に動き出す。「ドラムはあの太くてでかいヤツがいい」。パンク仲間が高円寺の喫茶店に集まると、目当ての男を「拉致」。中野の狭い路地裏で、露天商の後ろに座っていた危険な男も取り込んだ。今につながるメンバーたちである。
「ファッションのように確立したパンクの概念を打ち壊す」。そううたって、他のパンクバンドを挑発し、ライブハウスでは抗争が頻発した。ある夜、演奏を始めると、それまで後ろの方に座り込んでいた連中が最前列に乗り出してモノを投げつけ、乱闘になった。この敵側バンドの2人も今のメンバーだ。
音楽もパンクロックから、ノイズに近い破壊的な演奏になった。だが、壊した後に何を作り上げるのか。1999年末、初めて「切腹ピストルズ」の名称を使った実験的なライブを行った頃、飯田はまだ暗闇を手探りで這い回っているような状態だった。
「20代半ばから幕末や明治維新について思うようになった。『憂国』を書いた三島由紀夫についても考えた。日本はどこに行くのか、と」。少しずつだが、「日本」とその歴史への回帰が始まっていた。
そして大きな転機を迎える。付き合っていた19歳のロシア人女性が、ロンドンの名門校の受験に行くという。飯田は、すべての家財を処分して一緒に英国に渡った。
彼女が受験勉強に打ち込むため、飯田はロンドンの街をあてもなく徘徊する日々を送った。出会ったパンク系の英国人たちとパブで24時間ぶっ通しで話し込んだこともある。すると、音楽の話をしている間は話が合うが、次第に音楽への衝動の原点に話題が及ぶと違和感を覚えていく。
パンクロックは、労働者階級の音楽界への逆襲だった。音楽を楽しむのは一定の所得層で、高級な楽器や演奏機材を揃え、アートスクールで音楽理論や演奏技術を学ぶ。労働者階級にとって、商業的に成功する音楽は、手の届かない所に行ってしまったかに見えた。だが、彼らが開き直って楽器を手にして、単純なコードだけで演奏した。暴れまくるように、社会への反抗をパンクに託して叫んだ。パンクロックはイギリス社会の矛盾から生まれていた。
「オレたち日本人には、何も関係ないじゃないか」
それに、英国のパンクやアートの連中は歴史にも詳しい。石造りのアパートメントに誰が住んでいたか、亡命してきたカール・マルクスや小説家のチャールズ・ディケンズの話に飛んでいく。
そして、ふと話を振られる。
「日本の『わび』『さび』ってどういう意味なんだ」。そう聞かれて、答えられない自分がいた。それぞれの地域に土着的な文化や祭り、音楽がある。それを元にして、時代に合った芸術へと進化していく。そう痛感させられた。
自分の中にあった「日本って何だ」という思いが次第に大きくなっていった。
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