74年、立教大学法学部を卒業すると、東洋ガラスに就職し、川崎工場に配属される。勤務する約1000人のほとんどが技術者で、秋葉は数少ない事務職として総務を担当した。工場長からはこう命じられた。「毎朝、職場を回って歩け。そして気づいたことを月に1回、まとめて報告しろ」

 ガラス製造の工程では、最高1600度まで釜の温度が上昇する。製造過程をのぞき見ることはできず、釜から取り出さなければ仕上がり具合が分からない。それは職人技の世界だった。だが、管理畑の上司は、「古いガラス工場の意識を変えないとダメだ」とマニュアル化を急ぐ。3年目から労働組合の活動も経験し、多くの現場社員や役員との交流を深めることになる。それが、7年目に本社人事部への異動へとつながった。

 「思ったことをズケズケと言う、まっすぐな性格の人だった」。人事部(社員室)の後輩だった東洋ガラス総務部課長の清水俊博はそう振り返る。そして、秋葉は着実に社内で昇進していった。

 だが、90年代になって、秋葉の心に変化が生じることになる。バブル崩壊で経済は厳しさを増していたが、ガラス業界は景気の波を受けにくく、業績もなんとか持ちこたえていた。それでも採用人数が激減し、漠然とした不安と疑問が心に影を落としていく。社内の空気も重く、息苦しさを感じる。

 そして、ある時、思いがけないことに気づく。社内報の担当だったため、会議のテープを聴いていた。そこには、社内にルールを押しつけようと怒鳴りつけている自分の声が録音されていた。

 「この重苦しい空気を作っていたのは自分だったのか」

 その頃のことだった。「もっと開かれた人事部にならないといけない」。秋葉が、思いつめた表情でそう話していたことを、清水は今でも覚えているという。「何か変わらなければならないと感じていたに違いない。心の機微がある人だった」

生と死の境目

 このままでいいのか。その思いに追い打ちをかける出来事が重なっていった。

 1995年。年明けには課長への昇進が内示された。その直後に、阪神大震災が起きる。大阪工場に駆けつけた秋葉は、社員の無事を確認すると、神戸にある寮を見に行くバスに乗り込んだ。そして、崩れ落ちたビルや家屋を目の当たりにする。川を隔てて、一方は日常生活が失われ、多くの人々が命を落としているが、もう一方は何事もなかったかのように生活が続いている。

 生きて残っている自分と、亡くなっていった人の差は何なのか。

 その2カ月後、地下鉄サリン事件が起きる。猛毒のサリンが撒かれたのは、勤務する内幸町の本社ビルの近くだった。人事担当として、社員の安全確認に追われた。数日して一息ついたところで、新聞を開いた。すると、そこには娘を失った母親の手記があった。

 娘が「ただいま」と言って玄関に戻ってくる日常が消えた。それでも、元気な声で帰ってくるような気がしてならない、と。受け止めきれないほどの喪失感が、突然、平静な家庭生活を断絶するように襲ってくる。

 ちょうどその頃、職場の先輩がガンで入院した。引き継ぎもあって見舞いに足を運ぶと、先輩がポツリとつぶやいた。

 「なあ、秋葉くん。なんで俺だけが、こういう目にあうのかな」

次ページ 「周囲から歓迎されないぞ」