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 その考え方は、石川の2代前の社長だった祖父・信太の経営に寄るところが大きい。信太は1980年から28年にわたって社長、会長を務めた一方で、画家としても知られる。2000点を超える絵画を遺したが、その多くは里山の風景だった。

「それは開発じゃない、破壊だ」

 「私は、失われる運命にあるものを現存する時にキャンバスに残したい思いに駆られて、スケッチに出かけるのかも知れない」(『石川信太自伝』)

 そして、「絵を描くことと、会社の経営とは、その考え方に、共通するところがある」とも綴っている。信太はスケッチ旅行に出かけ、風景を前にして、指で正方形を作りながら、どう区切り、解釈して一枚のキャンバスに納めて作品にするか思案した。それは、意見やデータ、将来予測を鑑みて決断する会社経営に通じるという。

 だから、信太は小さな駅舎を建て替えることもせず、窓枠をサッシにすることも許さなかった。列車も40〜50年前のものを使い続けている。

 石川は、そうした祖父の経営哲学を、初めは理解できなかった。大学卒業後に千葉銀行に勤務していた時のこと。祖父と食事をしていると、こう聞かれた。

 「お前、どういう仕事をやっているんだ」

 家の中でも威厳を放つ祖父は、気安く口をきけない相手だった。ここぞとばかりに、銀行で再開発事業を手がけていることを話した。すると、思いがけない言葉が飛んできた。

 「君がやっていることは破壊だよ。開発じゃねえよ」

 返す言葉がなく沈黙した。祖父の深意は分からなかった。「開発と破壊」。その言葉だけが脳裏に刻まれた。

邪魔なものを省いていく

 2008年に会長だった祖父が96歳で亡くなった。その翌年、入れ替わるように石川は社長に就くことになる。

 「私なんか、何か言える立場ではありませんからね。ただ、じいさんが社長でいたから、こうやって(経営者を)やらせてもらっているだけですから。それなら、つないでいかないと」

 そして、石川は「開発」の意味を考え抜くことになる。

 養老渓谷駅に足湯を作り、飯給駅には市の協力によって「世界一、大きいトイレ」が設置された。だが、それで多くの人が集まるわけではなかった。飯給駅の1日の乗客は4人にとどまる。何かが足りない。

 その解に近づいたのは、2年前のことだった。

 「里山トロッコ列車」の運行を2015年秋に開始する。車両は窓を取り払い、天井もガラス張りの開放型にした。時速25キロでゆっくりと走るため、ほどよい風を受けながら、自然の風景を抜けていく。住民とも目線が合い、互いに手を振り合う。

 「60キロで走ると見えないものがある。遮るものを省いていけば、そこにあるものが伝わるんじゃないか」(石川)

 その後、夜にビールサーバーと地元産の弁当を積み込んだ「夜トロッコ」を走らせるようになった。地元の人々も乗り込み、遠方からやってくる人々との交流の場にもなっている。

 列車内で人々が盛り上がる様子を見ながら、石川は呟いた。

 「もしかしたら、これをやるためにトロッコを作ったのかもしれない」

夜にビール飲み放題のトロッコ列車を走らせ、石川晋平社長も人々の輪に加わる