「仕事柄色んなところを覗きますが、猫N舎に来ると、落ち着ける。もちろん、初めて喫茶店の良さを知った群馬のお店も印象深いけど……」
そこは先輩が好きで、行きつけていた店だから、猫N舎とは一緒にはならないのだと、F氏は語る。
「猫N舎は自分が東京で見つけた、自分の好みに合った店。だから研修が終わって東京を離れるときには、記念にお店が払い下げるコーヒーカップを買って帰るつもりです。研修のこと、東京のことを大阪の自宅でも思い出したい」
大阪からの単身赴任者、F氏が思い入れる猫N舎とは一体どんな店なのだろう。それで猫N舎に行ってみたのです。
行ってみました、猫N舎
昼下がり、荒木町の界隈をウロウロ歩き回る。隠れ家的な店とは聞いていたけどその通りで、やっと見つけた猫N舎は雑居ビルの奥でひっそりと営業していた。
F氏、よくこんなところにまで入っていったな、と感心しながら猫N舎の扉を開ける。中に客はおらず店主がひとり、コップが積み上がり、コーヒー豆の入った瓶の並ぶ、カウンターの奥の厨房にいて、ひたすら、新品のネル(布製のフィルター)をハンドルにセットしては湯気の立つ鍋に放り込んでいた。店内にはコーヒーの香りが充満している。おそるおそる、声を掛けてみた。
「コーヒー飲んでいいですか」 (F氏のセリフを真似しました 笑)
それでF氏と同じ様にカウンターに座り、メニューを探すが、それらしいものがカウンターにも壁にも見当たらない。頼めばもらえるのか、だけどコーヒーに詳しい訳でもない己は、F氏の事前情報通りに、ブレンドを注文することにした。それと、ガラスのケーキドームに入ったパウンドケーキもいただくとしよう。
自家焙煎の店なので使う道具が多いためなのか、店の中は雑然としていて、箱やら容器やらがそこかしこに置かれている。まるで、神保町の雑居ビルに入る古書店みたいな片付かなさ。そこに、タウン誌の営業をしている若い女性が飛び込みで訪ねて来たり、近所のおばちゃんが町内のお知らせを伝えに来たりと、地域の人が入れ替わり立ち替わりやってきた。町のコーヒー屋といった風情で、気取った感じはない、この店の肩肘の張らなさがF氏には心地よかったのだろうか。
来客がようやく途切れ、「すみませんね」と謝りながら、店主がコーヒー豆を量り、挽き始めた。
話しかけられるかも(緊張)、と構えていたのだが、店主はコーヒーを淹れるのに専念していて、こちらを見る様子もない。
それで、目の前のケーキをいただくことにする。このパウンドケーキ、なかなか美味しい。感心していると、知り合いが作ったのを売っているのだと、店主の声。
親しみやすさと、とっつきにくさの間の、付かず離れずの距離を保つ店主。そういえばさっきの来客とも初見、相識に拘らず、同じようなテンションで話していたな。これが、F氏のいう「フラットさ」なのか。確かにここでは常連扱いされる面倒臭さとか、相手にしてもらえない疎外感は生まれなさそうだな。ドライでもウエットでもない、相手に踏み込みすぎない、デリカシーのある環境が、束の間、緊張感を保ったままで自分を解放したいF氏を復活させるのに必要だったのか……と想像していたその時、目の前にコーヒーが置かれた。
薄手の有田焼のカップには南蛮渡来の服を来た可愛らしい赤毛の少年の絵が描かれている。お店が客に合わせてカップを選ぶ店だと、大抵は花柄のカップで出されるから、このチョイスはかなり新鮮。さて、コーヒーを飲んでみよう。口に含む。
おお、ボルドーワインを彷彿させるビロードのような舌触り! 深炒りだけど苦みはそんなに強くないし、酸味もあるが、それ以上に甘みが強い。全体が玉露のようにまろやかで、豆をふんだんに使って贅沢に抽出していると思しき、エスプレッソにも負けない程の濃厚な液体は、滑らかに喉奥へと吸い込まれていった。
ふう、美味しい。
なるほど、癒される一杯とは、押し付けがましくなく、真面目に、丁寧に淹れてできるのだと合点。猫N舎のコーヒー、来た甲斐があったぞ! それとF氏、実はかなりのコーヒー好きと見た。コーヒーのお味については、ほとんど言及されていなかったけれど、仕事柄色んなお店をご存知だろうし、コーヒーにこだわる人ならば、コーヒーそのもののクオリティーはかなり重要なポイントにもなる。
もうひとつ、F氏の言う通り、自分で見つけて好きになる喜びというのは相当に大きい。もちろん店の雰囲気が好みだったことも含めて、雑居ビルの奥で営業している、ぱっと見にはこだわりの珈琲店とは思えない猫N舎で、驚くほどに美味しいコーヒーが出て来た。ここを自分の嗅覚で探り当てた満足感は相当のものであったはず!
……などと考え、コーヒーを啜り、店主が再び、ハンドルにネルをセットする様子を、ぼーっと眺めて過ごしたのでした。
【2ndシーズンはあと1回、年明け1月10日掲載予定です。どうぞお楽しみに!:編】
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