「7、8年前に行ったBARの話ですけど、嫌な客がいまして」
 と、S氏は切り出した。

 当日S氏は打ち合わせが終わって直帰、それで新宿界隈にあったBARに飛び込んだのだという。初めて入ったその店は、カウンターの隣にいた若い女性2人が大声で話していたのがうるさくて酒を楽しめず、自分を“復活”できずにいた。

 特に、派手な服で奇抜な髪型の真横の女性は、マスターにも平気で話しかけるし、話に夢中になるあまり、S氏に肘をぶつけてきても全然気が付かない。

 「だから1杯だけ飲んで帰りました。BARは静かに酒を飲むところなのに。話をする場所なんかじゃない」

 いや、そうかもしれませんけど……。そもそも我々女性はBARでのお作法を知らない、それこそTVの中の世界なのです。

 お話くらい、いいじゃないですか。だってドラマじゃ、決まってBARで打ち明け話、してますよ。ひとり客ならマスターに相談すれば大抵いい答えが貰えてる。あれを見たらBARっていうのはお悩み相談所みたいなものなのかな、って思いますよ!

 と、見も知らぬ女性の肩を持つイトウに、S氏は首を横に振り、きっぱりと言った。

 「ドラマだってBARでは大声で話したりはしていない。周囲を気遣ってます」

 いや、そんなことはない、結構派手に暴れてる。話がもつれた挙げ句、カクテルを相手の顔にぶっかけて、お店を飛び出すシーンなんてザラなんだとムキになるイトウを、S氏は制止した。

 「ともかく、聞いて下さい。この話には続きがありまして、半年後にまた、その店に行ったんです。前にそこに来たことをボクはすっかり忘れてたんですけど、マスターが覚えてた。それで、ボクに謝らせたい人がいる。ちょっと待っててくれ、今呼んで来るから、って言うんです」

 それで現れたのが、以前、隣に座っていた女性。彼女はこの店の常連で、S氏が帰った後、マスターに説教されて、以来ずっと謝りたかったのだという。

 「話してみると、いい子なんです。髪や服が派手なのは美容師さんだから。それに仕事にも真面目な子で、その後は意気投合。他の店に飲みに行って、そのままつき合うことになっちゃった。そのとき彼女は25歳。あ、ボクは42、43歳くらいだったかな。ちょうど離婚調停が終わって独り身になってたので」

 ええっ、離婚していたんですか!? ……それで25歳!?
 S氏の話についていけず頭は大混乱!

 なんせ自分は、この仕事に熱い男、S氏に、ガンダムの登場人物で部下からの信頼も厚いジオン軍のゲリラ戦のスペシャリスト、ランバ・ラル大尉を重ねていた。ランバ・ラルはハモンさんに一途。だからS氏も奥さん一筋な人なんだろうと、勝手に思い込んでいたのだが、いや、しかし。

 現実世界だと、ランバ・ラルのような仕事一筋の男性は安定の暮らしを望む女性のターゲットになりやすく、若いうちに結婚する流れがままある。しかし家庭のあり方に対する価値観が全く違う二人、ますます仕事に邁進する夫と、家庭中心でありたい妻との間にすきま風が吹いたりするものだ。それで、何かのきっかけがあると離れていく夫婦も少なくない。ひょっとするとランバ・ラルのような忠義の士に寄り添えるのは、家庭志向の強い女性よりも酒場の女、ハモンさんみたいな世の中の酸いも甘いも知り尽くした女性なのかもしれない。

 アニメの筋にはない、リアル路線でのランバ・ラルの私生活を妄想中のイトウに、S氏は話を続ける。

 「3年くらいつき合ったけど、その子、田舎に帰っちゃって。今はLINEでやりとりしてます。で、その後につき合ったのが27歳の子。タレントみたいな仕事をしてる子で、その子とは一緒に住んでた」

 ええっ、まだ他にも(彼女が)!?
 驚いたのだが、同時に納得もする。そうだった。そもそもランバ・ラルのようなゲリラ戦が日常の臨戦態勢の男にとっては、娑婆で女性を口説くのなんて屁でもないし、明日の命も惜しくないからこそ、ハモンさんみたいな謎めいた美女だって夢中にさせる余裕もあるというもの。

 「ボクは恋も仕事もハンターなんすよ(笑)」

 涼しい目元で笑ってみせたS氏。なるほど、BARで無闇に暴れるのはこわっぱ連邦兵、戦いの場と小休止の場をわきまえるのが真の軍人ということなのだな。 銃を構える仕草をするS氏に、ランバ・ラルがしっかりと重なって見えた。……こんな私にBARは所詮、TVの中の遠い世界なのかもしれません(笑)。

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