迫る世界デフレ――。欧州中央銀行(ECB)や日本銀行の非伝統的な金融緩和策でも、なかなか上向かない物価。そんな中、欧米ではこれまでタブーと言われてきた政策を真剣に議論すべきとの機運が高まっている。代表例が、経済学者のミルトン・フリードマンがかつて唱えた「ヘリコプターマネー」だ。
ヘリコプターマネーは需要を喚起するために、国民に現金などを直接配ってモノやサービスを購入してもらう政策で、ヘリコプターからお金をばらまくような手段であることから、この名がついた。米連邦準備理事会(FRB)のベン・バーナンキ前議長もかつて言及したこともあり、英国では金融行政を監督するFSA(金融サービス機構、現在は2つの組織に分割)の元長官だったアデア・ターナー氏が最新の著作で導入を主張している。
政府が実質的に債務残高を増やさず、かつ減税のように将来の増税懸念がないことから、需要喚起に効果的な手段といわれる。一方で、過度なばらまきはお金の価値を暴落させ、ハイパーインフレを招きかねず、日本では極論と言われてきた。そんなヘリコプターマネーが、なぜ最近注目を集めているのか。ターナー氏に聞いた。(聞き手は 蛯谷 敏)

英シンクタンク、インスティテュート・フォー・ニューエコノミックシンキング会長。1955年生まれ。米マッキンゼー・アンド・カンパニー、米メリルリンチ(現バンク・オブ・アメリカ・メリルリンチ)などを経て、2008年から2013年まで英国の金融行政の監督機関FSA(金融サービス機構、現在はFCA=金融行為監督機構とPRA=健全性規制機構に分割)長官を務めた。最新著作『Between Debt and the Devil』でヘリコプターマネーの導入を説いている。(写真:永川智子、以下同)
昨年後半から、世界経済の減速が顕著になってきました。ターナー氏は以前から、2008年の金融危機以降の世界経済は、バブル崩壊後の日本経済に似ていると指摘してきました。
ターナー 経済低迷の理由は2つ。需要不足と過剰債務の問題に尽きる。世界経済は原油価格の下落と中国経済の減速によって資源を中心に供給過剰の状態が続いている。一方で、欧米を中心に多くの先進国が、金融危機後に抱えた巨額債務の反動で財政規律重視の傾向が強まった。このため、各国政府は思い切った財政政策を打てず、経済の停滞につながっている。
この状況は、1990年代後半のバブル崩壊後の日本によく似ている。1980年代、経済が絶好調だった日本企業の多くが我が世の春を謳歌したが、バブル崩壊によって多額の負債を抱えることになった。積極的に企業に融資していた金融機関も経営が揺らぎ、金融危機が勃発した。「貸し渋り」や「貸し剥がし」といった言葉が流行したのもこの頃だ。
危機を脱するために、日本政府は財政出動を繰り返して経済を支えたが、結果として政府が民間企業の債務を肩代わりする形になり、巨額の債務を抱えることになった。日本の1990年から2015年までの間でGDP(国民総生産)に占める企業債務比率は低下した一方、国の債務は急上昇している。
2008年の金融危機後も、欧米や中国は大胆な財政出動を繰り返し、政府が多額の債務を抱えこんだ。そして、次第にこの状況に不安を抱く国民が増えた。金融危機の最悪期をのりきった2010年ころから、欧州では財政規律の維持が盛んに叫ばれるようになってきた。
これも日本で見られた光景だ。多額の負債を抱えた国家の財政に対して財政健全化の声が高まった。しかし、民間企業がまだ立ち直っていない中で緊縮財政を実施してしまうと、企業や家計の投資・消費意欲を減退させ、経済をさらに萎縮させかねない。結果として需要が盛り上がらず、物価下落を引きおこしてしまう。これが、日本のデフレを招いた大きな要因だった。
財政出動が難しくなる中で、期待されたのが中央銀行の金融政策だ。財政政策のように直接ではなく、間接的に物価を引き上げようという施策が注目されるようになる。ゼロ金利、フォワード・ガイダンス、量的緩和そしてマイナス金利と、現在ECBが実施している施策は、すべて日銀が導入済みのものだ。
しかし、残念ながら日本の経験で明らかになったのは、金融緩和策の限界だった。企業や家計の資産がゼロに近い、あるいは負債を抱えている状態では、利下げやマイナス金利の効果はあまり期待できないということだ。考えてみて欲しい。多額の借金を抱えた企業や家計が、金利を1%からゼロに引き下げたところで、新たなカネを借りて投資しようという気持ちになるだろうか。
利下げは、健全な状態の企業や家計の資産価値が上昇することで、初めて機能するということだ。
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