他の人が取締役になったほうが良いのではないか

 さらに翌日、19日の夕方、今度は(フラクタ共同創業者の)ラースさんがシリコンバレーから東京に到着する予定になっていた。僕は日本出張に出発する前、レッドウッドシティのオフィスでラースさんにこう伝えていた。

 「ラースさん、今回の日本出張では、銀座でとびきり美味しいお寿司屋さんを予約するから、一緒に行こうよ。最近2人で出張することも無くなったから、こういう機会を大切にしたいんだ」

 僕はラースさんと、こうして日本にいる間に、一対一で、よく話をしてみたいと思っていたことがあった。今後の会社経営についてだ。ラースさんはこの3年、僕と一緒に、フラクタのために全身全霊を尽くして新しい事業構築に邁進してきた。一方で、最近ではダグやジョエルといった副社長が僕の脇を固め、会社というものを堅実に大きくするために、(製品・エンジニアリング担当部署が)新しい機能を開発しては、(営業・マーケティング担当部署が)それを売る、という「流れ作業のようなもの」を構築しつつあったのだ。

 ラースさんという変わった人が本当に必要とされるのは、とりわけ事業の初期段階であり、こういう(良い意味で)クレイジーな人に、人の管理だとか何だとかを任せることは、必ずしも経営として正しくはない。だからこそ、ラースさんとよく話をした上で、営業・マーケティングの責任者を(ラースさんではなく)ダグに任せたという経緯があったが、ではラースさんは次に何に集中すれば良いのかということに関しては、ダグとジョエルがしっかりと組織に根を下ろすまで、必ずしも明確ではなかったのだ。

 その間、ラースさんには、カリフォルニア周辺5州の営業を担当してもらいつつ、大型の企業提携が必要なときはそこに参加してもらうという役割を担ってもらうようお願いしてきたのだが、いよいよ来年からは、チーフ・イノベーション・オフィサーとして、CEOである僕と一緒に、たとえば新しいビジネスモデルへの挑戦、また、ガス管や石油管、はたまた全く違ったインフラ資産に対する人工知能を使った予測ビジネスを開拓してもらおうと思っていた。

 しかし、3年間ものすごい勢いで新事業を開拓し、また次の3年間で新たな事業を開拓するのは、精神的にも体力的にも容易なことではない。それは鉄人ラースさんにとっても同じだっただろう。ラースさんからは、今後ラースさんが共同創業者としてやるべきことについて、何度か簡単に相談を受けていた。ラースさんの日本への到着を心待ちに、さて今日は何の話から始めようかなとちょうど考えていた、19日の朝、僕はフラクタの受信メールボックスの中に、ラースさんから一通のメールが入っていることに気がついた。

 明るい調子で始まったそのメールを読んでいくと、なんとなくではあるものの、ラースさんの疲れや不安感が文面に滲んでいるような気がした。そして、そのメールの最後には、驚くべきことが書いてあったのだ。「ん?」。僕は何度か目をこすったが、やっぱり何か書いてある。そこには「自分は、フラクタの取締役を降りたほうが良いのではないかと、最近思うことがある」と書いてあったのだ。

 メールに書いてあったことの概略はこんな感じだ。栗田工業がフラクタの過半(50.1%)を買収し、自分もフラクタの共同創業者、またチーフ・イノベーション・オフィサーとした新たな冒険に向かおうと準備をしている。色んなことを仕切り直して、また奮起していかなければならないとは思っている。しかし、取締役のメンバーにも日本人が増えてきたし(栗田工業からの派遣取締役が増えたから、それは客観的に見ても事実だった)、フラクタの方向性を語る上で、日本の文化をよく知る人間が取締役になったほうが良いのではないかと思うことがある、と書いてあったのだ。

 なるほど、ラースさんも色々と自分なりに悩んでいるんだな、と思った。今日の夕飯は、絶好の機会だ。ラースさんという仲間、ラースさんという人間と正面から向き合い、ものすごくストレートに色んなことを話してみようと思った。おそらく日本で一番美味しいだろう銀座のお寿司屋さんも予約した。その日も一日展示ブースに立って、色んな人と話をすると、僕は早めに東京ビッグサイトを後にした。

 夕方の銀座なんて、本当に久しぶりだ。有楽町駅の真ん前、数寄屋橋の交差点に立つと、黄色や赤、緑といった色とりどりのネオンに光るビル群を眺め、なんだか僕は日本の中心にいるような気持ちになっていた。そもそも僕は銀座という街に縁がなく、ここに来ることは少なかったが、今の僕に見えるこの銀座という街は、さながら香港のようでもあり、さながら上海のようでもあった。しばらくサンフランシスコ・ベイエリアで生活すると、まるで僕は外国人のようでもあり、観光客のような心持ちで、銀座の街に立っていたのだ。

 銀座4丁目の交差点から歩いて3分ほど行くと、路地を入ったところに中華料理屋さんがある。その中華料理屋さんの中に入り、レジの奥まで進むと、その寿司屋の入口が現れた。隠れ家とはまさにこのことで、僕は早速入口付近の写真を撮って、おそらくは道に迷うであろうラースさんに写真と一緒にメッセージを送った。