大坂なおみ選手の快挙の向こう側で

 さて、話はガラッと変わるが、9月8日(日本時間9日)、テニスのUSオープンで「大坂なおみ」選手が、男女合わせ、日本国籍を有する者として初めてグランドスラム(全米、全仏、全豪、ウインブルドンの4大大会のこと)で優勝するという快挙を成し遂げた。歳は違えど、同じく日本からアメリカに渡った人間として、「JPN(日本のこと)」という表示とともにテレビに映し出される彼女を見て、僕は喜びを爆発させた。

 相手は23度もグランドスラムで優勝経験のある、アメリカの女王セリーナ・ウィリアムズだ。2セット先取で優勝が決まる決勝戦(ファイナル)で、大坂なおみは危なげのないペースで1セット目を先取。2セット目に入り、劣勢に立たされたセリーナ・ウィリアムズが、軽微なルール違反に対する警告を取られたことから、審判への猛抗議を行った。その過剰な抗議(とその態度)に対するペナルティー(テニスの1セットは6ゲーム先取で決着が付くのだが、その6ゲーム中1ゲームが無条件で大坂なおみに渡された)も手伝って、大坂なおみが2セットを連取して、優勝したのだ。セリーナは、どうにも腹の虫が収まらなかったらしく、途中から、自分が「女性だから」ペナルティーを取られた(つまり女性だから差別されてゲームを失った)と強く主張していたが、全く筋違いだったと僕は思う。

 僕のコラムをずっと読んでくれている読者の方ならば分かってもらえると思うが、僕は母子家庭で育ったという自分の生い立ち、その生々しく苦々しい経験から、日本における「女性蔑視」の風潮に対してものすごく強い反対意見を持ってきた。しかし、その僕から見ても、セリーナが「女性だから」ペナルティーをもらった(男子のゲームならば、主審に暴言を吐いてもペナルティーにはならない)とは、全く思わないのだ。

 スポーツの現場で、審判のジャッジに対して、「こんなのおかしいわ。私に謝りなさい!あなた、早く、早く謝りなさいよ!」なんて何度も何度も詰め寄るなんて、常軌を逸している。サッカーならレッドカードで即退場だろうし、テニスだって当然国際的なスポーツなんだから、女子だろうが男子だろうが、そんな選手の態度が認められるわけがない。

 アメリカという国にしばらく住んでみると、良いところもたくさんあると思う反面、ものすごくおかしなところもあることに気づく。アメリカには色んな人が住んでいるし、これだけ多種多様な人たちがいれば、およそ一般化なんてものには意味が無いと思えなくもないが、とはいえアメリカ人には、日本人とは異なる「ある傾向」があることも事実だ。

 自分中心の利己主義がまかり通っていることから、たとえば会社を運営するにしても、まず自分の利益が真っ先に来て、次に会社全体の利益が来るなんていうのは当たり前(会社全体が儲かることよりも、自分に成果ボーナスが多く入る仕事の仕方をするなんて当たり前。オフィスを移転しようという話になったら、全ての従業員の家からの距離のバランスなんて全く考えず、自分の家の近くの住所を強烈にアピールするなんて当たり前)なのだ。

 以前も触れたが、カリフォルニア州では、人材採用においても、有色人種であることや、性別による差別を禁止していることから、従業員が訴訟を起こし、こうした差別があったとみなされた場合には企業に大きなペナルティー(損害賠償請求)が課される。一方で、企業に対しある種こうした強力な武器を手にしてしまったことから、有色人種であること、女性であることを(逆手に取って)過剰に強調することで、物事を有利に進めようとするインセンティブが従業員サイドに生まれやすくなることも事実なのだ。

 さらに他方では、こうした傾向を把握している企業サイドとして、入社面接のタイミングで、有色人種や女性を面接した場合に、後で訴えられないよう、つぶさに(かつ意図的に)記録を残していくという傾向があり、結果として、「プロセスさえしっかりしていれば(つまり有色人種だから不採用にしたのではない、女性だから不採用にしたのではないという証拠集めをきちんとやれば)、実際は(その採用担当者が差別主義者だったとしても)有色人種や女性の入社を上手く拒むことができる」ようなシステムになっているようにも見える。

 アメリカという国は、多種多様な人たちが持つ基本的人権に対して真剣に向き合ったからこそ、時として、こうして議論がものすごく複層的になる傾向があり、それが社会全体にある種のモヤモヤ感を醸成している。メディアという限られた語数、時間枠で語られる抽象化された世界では、一回で現実をすくい取ることが難しい。そこかしこで起こっている個別具体的な現実が、メディアで語られる一律の理想主義とは必ずしも一致しないことが多く、ある種の違和感が残るのだ。