4月6日(水曜)、テキサス州ヒューストンから、アリゾナ州フェニックスの空港を乗り継いで、深夜23時にカリフォルニア州サンノゼの空港に降り立った。月曜、火曜とヒューストンで行われた石油産業におけるロボットの応用可能性に関する展示会を終え、水曜には、大手石油会社を中心に集まったロボット業界団体の北米支部に出向き、ディスカッションに参加した。20人くらいのCEOが集まったが、周りはみんな白人で、日本人、いやそれどころかアジア人は僕一人だった。
サンノゼの青空と6杯のコーヒーと新たな日々
到着ゲートを抜けて外に出ると、どうやら日中は30℃を超えていたせいもあって、生暖かい風が頬を撫でた。やっとサンノゼに帰ってきた。澄んだ空気と、どこまでも深い群青色といった感じの星空を見て、無事ホームグラウンドに帰ってこれたことを喜んだ。
日本人エンジニアと一緒に、ロボットが入った大きなスーツケースを引きずりながら、空港の駐車場に向かう。車で高速101号線を走ると、24時に自宅に帰り着いた。
その3日前、4月3日(日曜)。出発の日も朝から波乱に満ちていた。サンノゼ空港を朝9時に出発する予定だったものの、春休みの影響で空港はごった返し、セキュリティ・チェックを待つ超長蛇の列、そこにきて何人もが原因不明のブザーに引っかかり、列は全く進まなくなってしまった。近くの係員に「申し訳ないが、飛行機がもうすぐ出発する。急いでいるんだが、何か方法はないか?」と尋ねるも、「俺にできることは何もない」の一点張りだ。
国内線のセキュリティ・チェックに1時間半もかかり、搭乗ゲートに到着したときには、既に飛行機はサンノゼ空港を後にしていた。急いでフライトを変更するも、近い便はどれも満席で、結果サンノゼ空港で7時間も缶詰にされてしまう。ヒューストンの安宿に到着した頃には、もう深夜1時を回っていた。
それから3日間、展示会に参加している企業、ブースに立ち寄りロボットに興味を持ってくれた人々と、文字通り、話しまくる。相変わらず、寝ていない。コーヒーを朝に2杯、昼に2杯、夕方に2杯飲んで、何とか生きている。いつものことだ。
これは新しい僕の日常だ。ベンチャーキャピタルが投資した日本のロボットベンチャーの、アメリカ法人の立ち上げをやっている(僕がアメリカ法人のCEOだ)。1年半前に調達した3億円の資金が足りなくなり、今年の2月末に、追加で12億円の資金を調達しようとしたのだが、その過程でベンチャーキャピタルに依頼され、結局、僕が日本の本社CEOも兼務することになってしまった(結果として資金は調達できたから良かったのだが、なんだか責任ばかり増えて、いつも忙しい。大変だ)。ただし、これもいつものことなのだ。真面目に仕事をやっていると、最後には、必ず僕に仕事が降ってくる。
思えばなんでこんなことをやっているのだろうか。僕の新しい生活や冒険について書き綴る前に、自己紹介をしておいたほうが良いだろう。何しろロボットベンチャーの経営は2社目なのだ。
すべてはSCHAFTから始まった
僕が経営に携わった1社目のロボットベンチャーこそは、冒頭で僕がヒューストンからサンノゼに降り立った4月6日(時差があるので、それは日本時間の4月7日だ)、東京で行われた新経済フォーラムのイベントで、2年半ぶりに、世間に顔を見せたSCHAFT(現在はGoogleが持株会社化したAlphabet傘下のX[エックス]という組織の中にいる)だった。
僕はアメリカにいたので、生でそのプレゼンテーションを見ることができなかったが、動画で確認する限り、SCHAFTのCEOだった中西雄飛さんが久しぶりに聴衆の前に姿を現し、スター・ウォーズに出てくるR2-D2を彷彿とさせる新型二足歩行ロボットを披露すると、会場の聴衆は度肝を抜かれたようだ。
そりゃそうだろう。何しろアメリカ国防総省主催のロボット競技会(DARPA Robotics Challenge Trials)で、NASAやMIT(マサチューセッツ工科大学)、CMU(カーネギーメロン大学)などといった世界屈指の研究機関を一切寄せ付けず、圧倒的な技術力を証明して1位を獲得したのが、このSCHAFTだったのだから。
僕がなぜSCHAFTというヒト型ロボットベンチャーの立ち上げに参画したのかについては、今年3月20日に出版した新刊『無敵の仕事術』(文春新書)や、前著『未来を切り拓くための5ステップ』(新潮社)に詳しいので、ここであまり触れるつもりはない。要は、東京大学の助教だった2人のヒト型ロボット研究者の、ベンチャー創造に関する相談に乗っているうちに、それがあまりに素晴らしい技術であり、かつ創業メンバーの2人に共感してしまったこともあり、どんどん深みにはまってしまい、結果として一緒に経営してしまったという話なのだ。
まだ政府が「ロボット革命」などという言葉を掲げるずいぶん前の話で(もちろんSCHAFTの話がこのロボット革命の発端かつ契機になっているのだろうから、この順番で仕方ないのだが)、ベンチャーキャピタルがSCHAFTに1円たりとも投資することなく、中央官庁も助けてはくれなかったという過去の実話も、今では隔世の感すらある。結局、当時の僕たちは少ない資金で何とか生き延びていたのだけれど、ただし、技術力は世界一のものを持っていたので、最終的にアメリカのGoogleがSCHAFTの全株式を買収したということで、一躍話題になったのだった。
それが2013年の11月だから、もうずいぶん昔の話になってしまった。今のところ、後にも先にも、Googleが日本企業を買収したのはSCHAFTだけではなかろうか。そんなこんなで、SCHAFTの取締役CFOとして、同社をGoogleに売却することに成功したという仕事が僕の出世作となり、世界から注目を集めることができた。
何しろそのおかげもあり、アメリカでO-1ビザ(卓越能力者ビザ)という、芸能人やらスポーツ選手やらが取る就労ビザを取得できて、こちらに滞在できているのだから、ありがたい話だ(アメリカのビザ取得は面白く、また大変なプロセスなので、これはまた機会があれば触れよう)。
自己紹介があまり長くなるといけない。SCHAFTの創業から売却を行う以前は、僕はずっと企業の立て直し、いわゆる企業再生ばかりやっていた。早稲田大学理工学部の応用物理学科を卒業したものの、大学院に行く金も余裕もなかったから、東京三菱銀行(今の三菱東京UFJ銀行)に就職し、そこで不良債権処理という業務に出会ったのが運の尽き、そこからのめり込んで倒産目前の企業を助ける仕事に没頭するようになり、プロの経営者になって、いくつかの会社の企業再生をInterim CEO(暫定社長)や再生担当執行役員といったポジションで引き受けてきた。
まるで道場破りだ。このあたりも『無敵の仕事術』に細かく書いたので、興味があれば読んで欲しい。当時の僕が、どれだけ大変な思いをして、いわゆるマネジメント(経営)を学び、その中で、マネジメントではカバーできない領域であるリーダーシップを学んできたのかということを、隠すことなく開陳している。
アメリカに日本の旗を立て、もう一度驚かす
さて、話を現在に戻そう。僕はまた凝りもせず、日本のロボット技術をアメリカの市場に導入しようと奮闘している。「まず日本の市場で試しましょう、それが上手くいったらアメリカに進出しましょう」という、ものすごく正当な方法を完全に無視して、勝手に「日本ではなく、先にアメリカで売ります」と宣言するやいなや、アメリカ法人を立ち上げて、そのCEOに就任し、どんどん自分が思ったように進めていく。
日本のロボットベンチャーにおける、僕のアメリカ法人に対する協力、すなわち僕のアメリカ法人CEO就任の条件はこうだ。
「アメリカの市場開拓に関しては、加藤の独断と偏見に任せること。合議制など取らないこと。それが担保されなかったら、その日にこちらから辞任するということを了承すること」
何という傲慢、何というハチャメチャな話だろうか。しかし、ものには必ず理由があるのだ。なぜそんなことを僕が言うのかというと、それは僕が自分の中に明確なビジョンを持っているからだ。
"Make Japan Visible in the US"
すなわち、アメリカに日本の旗を立てること。
日本の製品やサービスを、世界に売ってみよう。いまや世界の中心、ビジネスの中心はアメリカだ。とりわけハイテク製品を売って成功するためには、アメリカで売れなければ話にならない。世界を日本の製品・サービスで、もう一度驚かしてやろう。そのためには、まずアメリカ人を驚かす必要があるという話だ。
大した話ではないかも知れないが、一方で、それを実現している日本企業は少数だ。
声を大にして叫びたいが、日本はアメリカの劣化コピーではない。アメリカで流行っているものを、ダウンスケール(小さく)して日本で流行らせるなんて、もう懲り懲りだ。日本から輸出できるハイテク技術といえば、色々とあるかも知れないが、何よりロボット技術が分かりやすいだろう。
1社目のロボットベンチャーで僕がそうしたように、ロボット技術というもの、とりわけ陳腐なハードウェアに優秀なソフトウェアを載せたくらいでは解決できない問題に関しては、それこそ何十年という経験に裏打ちされた巧みな機械設計とすり合わせ的改善によって問題に直接アプローチした場合のほうが、問題解決が相当程度容易になるのだ。もちろんひとたびハードウェアを固めたならば、その後にソフトウェアが活躍する土壌はまた大変残っているが、そのソフトウェアを載せるにしても、この日本のハードウェア技術を基礎にした方が、考え方が楽になると僕は信じている。
ラース副社長がやってきた
去年の夏、シリコンバレー(サンフランシスコ・ベイエリア)にアメリカ法人を立ち上げると決めてから、まず最初に副社長を採用した。SCHAFTで一緒に戦ったTomyK(ベンチャーの立ち上げと成長を二人三脚で支援するという意味を込めて、スタートアップブースターと呼ばれている。エンジェル投資とインキュベーションの中間的な会社だ)の鎌田富久さんが以前一緒に働いていたことがあり、かつ「加藤さんと気が合うんじゃないか」と紹介してくれたのが、ラース(Lars)さんだ。
最初に彼に会ったのはオークランド近郊の水辺にあるメキシコ料理店だった。ランチを一緒に食べようと待ち合わせをして、僕たちは席についた。しかし、彼の輝くばかりの眼差しと、その人柄を見るやいなや、「とにかく僕と一緒にアメリカ法人の立ち上げをやってくれませんか?」と僕は猛烈にプッシュしたのだ。
相変わらず自分は何を考えているのだろうかと思ってしまった。会って間もないのに。しかし、ここではそれが通用するのだ。なんと彼は、翌日に仕事を辞める決意をしてくれた。ラースさんが前職に関する諸々の引き継ぎを終えると、僕達はサンノゼ空港からほど近いエリアにオフィスを借り、ラースさんが10月1日から正式にアメリカ法人の事業開発担当副社長に就任すると、僕たちはアメリカ法人のオペレーションをスタートした。
ずっとシリコンバレーで活躍してきた彼は、ハードディスクに始まり、携帯端末用のOS(オペレーティングシステム)、VoIP、スーパーコンピュータと、ハイテク業界を渡り歩いてきた事業開発の天才だ。僕たちは、毎日一緒に汗を流し、知恵を出して働いている。彼は家族を愛する、大の野球ファン。日々、彼との仕事の中に、僕は情熱を見出している。何しろ彼の仕事に対する情熱、直感、何もかもが新鮮で、また素晴らしいのだ。この連載の中で、僕は彼の仕事のやり方について多くを語ることになるだろう。
サンノゼ空港からほど近いオフィス。ここからすべてが始まる
かくいう僕は、去年の11月にカリフォルニア州メンローパークに家を借りた。こちらの地価は住宅バブルで完全に高騰しており、驚くような家賃の割には、家はボロボロだ。僕の家は1953年築で、ものすごく古い。サンフランシスコからサンノゼまで、サンフランシスコ湾沿岸のエリアを指して、サンフランシスコ・ベイエリアという。
いざ、Max Dangerの冒険へ
別名シリコンバレーだ。毎日、何もかも分からない。話し方も考え方も違うアメリカ人たち(といっても、このエリアにはアジアからの移民がとても多いのだが)との生活やビジネスは、僕にとってはアドベンチャー(冒険)に他ならない。小さなことですら、最初は意味や理由が分からず上手くいかないことが多い。
しかし僕は毎日それを楽しんでいる。
『Max Danger: The Adventures of an Expat in Tokyo』(マックス・デンジャー:東京に住む外国人の大冒険)という本をご存知だろうか。1987年に書かれた本だから、知らない人のほうが多いだろう。かつて、東京に移り住んだアメリカ人が、文化的な衝突を乗り越えて、東京で生活する様を活きいきと書いた書籍なのだが、僕がいま経験していることは、まさに『Max Danger: The Adventures of an Expat in Silicon Valley』なのだ。
当連載「サムライ経営者、アメリカを行く!」は、僕にとっては、まさに自らのMax Danger物語に他ならない。何しろアメリカが商売の拠点だから、僕が日本のメディアに多く露出する積極的な意味は少ないだろう。しかし、自分の活動を記録しておくこと、それを後からアメリカにやってくるMax Dangerたちに届けることには一定の意味があるように思う。毎月、この日経ビジネスオンラインで、現在、僕が何をやっていて、どんなことに悩み、どうアプローチしているのかについて記載することができるならば、それは僕にとっても良いことだと信じている。
文章を書くというのは孤独な作業だから、道中、何かしらの温かいフィードバックをいただけるのであれば、info@takashikato-office.comまで連絡をもらえれば嬉しい。全てに返事をすることはできないかも知れないが、だいたい来たメールには目を通している。来月何が起こるのか、まったく分からない。来月起こったことを、書いていければ、それで良いのだろうと思う。
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