第一の理由はその単純性によるものです。客観価値説に従うと、ものの価値を知るために、それが誰によってどのように作られたかを調べる必要が生じます。モノにもよりますが、その作業は事実上不可能な場合が少なくないでしょう。

 さらに、そこまでして客観的な価値がわかったとして、何か良いことがあるでしょうか。市場価格の動向や取引量を予想するにあたって「本当の価値は」という問いはそれほど有用ではありません。「誰かが○○円の価値があると感じたんでしょ」というトートロジ-にしか見えない主観価値説による理解で十分に有用な知識が引き出せるなら、面倒な作業はしなくて良いではありませんか。

 「同じ現象を説明する複数の仮説があったときには、そのうちもっとも簡潔なものを選ぶべきだ」という考え方は、科学哲学の世界では「オッカムの剃刀(思考の節約原則)」として知られる考え方です。

 主観価値説が生き残ったのは、思考の節約のためだけではありません。

価値は原価と無関係、としか考えようがない

 客観価値説では、取引と合理性を同居させることが出来ないのです。仮に、客観的に100万円の価値の壺があるとしましょう。この壺が90万円で取引されたとき、買った側が10万得をしていて、売った側は10万円損をしているということになります。客観的な価値が存在すると仮定すると、客観価値と全く等しい価格で取引されない限り、取引は売り手買い手のどちらかが損をしていて、もう一方が同じだけ得をするというゼロサム状況にあると言うことになります。

 ここに大きな矛盾があることにお気づきでしょうか。引き続き壺の例を使うと……損をするとわかっているのに売り手はなぜ90万円で壺を手放したりするのでしょう。

 同じ商品や時期で価格に違いがあることからわかるように、全ての取引が客観価値ぴったりで行われていると考えるのはあまりに不自然です。すると客観価値説を守る(?)ためには、取引が成立するのは誰かが誰かをダマしているからであり、ダマされている方は取引によって損を被っていると考える他なくなります。同様に、取引によって得をしているのは、誰かを損させた結果だという経済観にも繋がります。このような経済観では、ビジネスの本質であるwin-winな取引を心から理解できることはないでしょう。

 「買って満足、売って満足する値段こそが正しい価格なのだ」
 というのが、現代の経済学の考え方なのです。

 食事の度に、服を買う度に、やたらと原価を気にする人っていますよね。少なくとも筆者の経験ではそのような人でビジネスに成功している人を知りません。客観価値説はビジネスのセンスを鈍くしてしまうようですよ!