数日後、ボリショイ劇場のウラジミル・ウリン支配人は「ヌレエフ」の初演中止について、「まだボリショイの舞台で披露する水準に達していない」として準備不足が原因だと説明。初演は来年5月に延期する予定で、中止ではないと弁明した。ただ、国営のタス通信が「ヌレエフ」の初演が延期されたのはメジンスキー文化相の個人的な指示だったと報道し、政権あるいは文化相による政治的な圧力が背後にあったとの見方が広がった。

 ボリショイ劇場も文化省もこうした臆測を否定しているが、「ヌレエフ」をめぐっては、政権側が疑念を抱かざるを得ない要素が幾つもあったのは事実だ。まずはヌレエフの経歴。確かにダンサーとしても振付師としても世界のバレエ界のスーパースターだったが、冷戦時代の1961年にソ連を捨て、海外公演中に亡命した経緯がある。

 ヌレエフは同性愛者としても知られた。舞台ではそれをどう描くのか。「ヌレエフ」の制作に年初から着手したボリショイは極力、その内容や構成が事前に外部に漏れないよう努めてきた。それでも、男性ダンサー同士のデュエットや女装した男性ダンサーたちの舞いが見どころになる、舞台の背景にヌレエフ本人のヌード写真が使われるといった噂が飛び交っていた。

 バレエ関係者の間でも、「ヌレエフ」がボリショイ劇場の従来作品と異なり、かなりセンセーショナルな舞台になるとの観測がもっぱらだった。同性愛に対して極めて保守的なプーチン政権にとって、決して無関心ではいられなかったはずだ。しかも、その「ヌレエフ」の脚本、舞台装飾、演出を手掛けたのがセレブレンニコフ監督だった。

 実はセレブレンニコフ監督がボリショイで新演目を手掛けたのは初めてではない。レールモントフの小説を題材にして2015年に初演されたバレエ「現代の英雄」も脚本、舞台装飾、演出を担当した。その時の成功もあって、ボリショイに新風を呼び込みたいウリン支配人の強い要請で「ヌレエフ」を手掛けていた。

 この「ヌレエフ」の制作過程に合わせるかのように、捜査当局が監督への圧力を強めていったことから、監督の逮捕は政権による芸術弾圧とみなす声が強まっているわけだ。今回の監督の詐欺捜査を主導しているのが連邦保安局の「憲法秩序の維持」を担当する部局だと、リベラル系のメディアが報じたことも一因となった。

 監督を擁護する芸術家らの間では、来年3月の大統領選でプーチン大統領を支持しない運動を呼びかける動きなども出始めた。ただし、政府系の世論調査会社「全ロシア世論調査センター」によると、同監督の逮捕についてよく知っていると答えた市民は12%に過ぎない。今回の逮捕劇がプーチン政権を揺さぶることはないだろうが、社会統制の動きが芸術の分野に及ぶのかどうかは今後も注視していく必要があろう。