ロシアで絶大な国民人気を誇るプーチン大統領にも死角がある。先月も小欄で紹介したが、通算4期目になってようやく着手した年金制度改革に国民の批判が集中。かじ取りを誤れば、政権の足元をすくわれかねない情勢となっているからだ。
年金受給開始年齢の引き上げに抗議 ロシアでデモ(写真:AP/アフロ)
「年金を受け取るまで生きていたい」「年金の受給開始年齢の引き上げは墓場への道だ」「年金で生活をしたい。職場で死にたくはない」「年金ジェノサイド(大虐殺)に反対」――。デモの参加者たちは、こんなプラカードを掲げて街中を練り歩いた。
7月最後の週末となった28日(土)と29日(日)。首都モスクワや第2の都市サンクトペテルブルクなどロシア各地で、連邦政府が進める年金制度改革に反対するデモや集会が開かれた。
前回も指摘したが、政府が年金制度を抜本改革する方針を表明したのは6月14日で、偶然か意図的かは別にして、世界的なスポーツイベントであるサッカーのワールドカップ(W杯)ロシア大会の開幕式の日だった。大会期間中は警備上の理由などからデモや集会が厳しく制限されていたので、W杯閉幕後では実質的に初めての全国規模の抗議行動となった。
ロシアでは現在、年金の受給開始年齢が男性は原則60歳、女性は55歳となっている。政府の改革案はこれを段階的に引き上げ、最終的に男性は65歳、女性は63歳とするものだ。
長寿化に対応して受給開始年齢を欧米の先進国とほぼ同様の水準まで引き上げ、財政破綻の危機を回避するのが狙いだ。財政を健全化するうえで待ったなしの施策といえるが、国民に痛みを強いる改革となるだけに、プーチン政権も長らく二の足を踏んできた経緯がある。それにようやく着手したわけだ。
政府は2019年から施行する方針で、制度改革の概要を発表するとともに、年金制度の改革法案を直ちに議会に送付。下院は7月19日に同法案の第1読会を開いて基本承認したばかりだ。7月末に全国で開かれた抗議デモや集会は、こうした議会の動きに反発した面もある。
とはいえ7月末のデモの参加者は首都モスクワでもそれぞれ1万人を超える程度で、もちろん大規模な抗議行動とはいえない。ただ、年金の受給開始年齢の引き上げは、国民の生活を直撃する。当然、市民の関心も極めて高い。
それだけに法案審議が本格化し、受給開始年齢の引き上げが現実味を帯びるにつれて市民の抗議行動も拡大し、ひいては社会を揺るがす深刻な懸案に発展するのではないかと危惧されている。
それを予兆させるのが、議会の対応だ。ロシア下院(定数450議席)は政権与党「統一ロシア」が4分の3以上の議席を占める。加えてロシア共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」といった野党勢力も実質的にプーチン政権を支える「隠れ与党」とみなされている。従って通常は、政府が提出した法案の処理で苦慮することはほとんどない。
法案に反対したのは「美しすぎる検事総長」
ところが年金改革法案をめぐっては、様相がかなり異なる。7月19日の第1読会では、ロシア共産党、ロシア自由民主党、「公正ロシア」の野党勢力がこぞって反対に回った。政権与党の「統一ロシア」が賛成し、法案は基本承認されたものの、同党も所属議員1人が公然と反対票を投じ、8人が採決を欠席した。
ちなみに法案に反対した「統一ロシア」の所属議員はナタリヤ・ポクロンスカヤ氏。かつてロシアによるウクライナ領クリミア半島の併合時にクリミア共和国の検事総長を務め、「美しすぎる検事総長」として話題になった知名度抜群の人物だ。
ポクロンスカヤ氏は2016年9月の下院選で初当選した。これまでロシア最後の皇帝ニコライ2世とバレリーナの恋愛を描いた映画「マチルダ」が皇帝やロシア正教を冒瀆(ぼうとく)しているとして、上映禁止運動の先頭に立つなどしてきたが、こんどは政府の年金制度改革案に公然と反旗を翻すことで存在感を示したわけだ。
「統一ロシア」は夏季休暇明けの9月にもポクロンスカヤ議員に何らかの処分を下す予定だが、市民の間からは同氏の「勇気ある行動」を支持する声が殺到しているという。
ロシアでも当然ながら、市民生活に打撃を与えたり国民にさらなる負担を強要したりする政策は不評で、それに反旗を翻す政治家の人気は高まる。
ポクロンスカヤ議員はともかく、下院の野党勢力が年金制度改革という敏感な問題でこぞって反対に回ったのは自然な流れともいえる。ただし、それにとどまらない。ロシア共産党を始めとする野党勢力は、政府の年金制度改革に反対する街頭デモや抗議行動の主催者にもなっているのだ。
年金制度改革をめぐっては、反政権派ブロガーとして知られるアレクセイ・ナワリヌイ氏を筆頭に、国内の民主派勢力も受給開始年齢の引き上げに反対するデモや集会を呼びかけている。こちらはプーチン政権の追い落としが主眼ともいえるが、今後、様々な勢力が相乗りしながら、政府に対する抗議行動が全国レベルで広がっていく恐れがある。
プーチン大統領がついに口を開いた
そんななか、これまで年金制度改革に関する発言を極力控え、メドベージェフ首相ら政府幹部に委ねてきたプーチン大統領がついに重い口を開いた。7月20日、最西端のカリーニングラードにあるサッカー競技場を視察し、先のサッカーW杯でボランティアを務めた市民たちと歓談したときだ。
「スポーツ以外の質問もして良いですか。下院は昨日、年金法制の修正について初めて審議をしました。あなたは当然、政府提案を熟知しているでしょうが、我々にとって、あなたの個人的な意見を知ることが非常に重要なのです」
市民の1人からこんな質問を受けると、プーチン大統領はまず「これは多くの国民にとって非常に敏感な問題だ」と指摘。その上で、年金制度改革は大なり小なり長年にわたって検討されてきたが、「様々な案のうちどれが気に入っているかと聞かれれば、私はこう答える。どれもだめだ。(受給開始)年齢の引き上げを伴ういかなる案も私は気に入らない」と公言したのだ。
もちろん、大統領の発言はそれだけではない。「専門家は感情論ではなく、経済の現状や予測、社会保障分野の現実的な状況に基づいて評価しなければならないと主張している」と言明。平均寿命が今は73.5歳、来年は74.3歳へと延び、政府が掲げる年金の受給開始年齢の引き上げ(男性65歳、女性63歳)が完了した時点では、男性の平均寿命は75歳以上、女性は85歳以上になっているなどと予測数字を列挙。仮に受給開始年齢を引き上げても、長期間にわたって年金を受け取れる可能性があることを強調した。
さらに、年金生活者に対する勤労者の比率が減少している現状なども紹介し、このままでは年金システムや連邦財政が破綻しかねないと警告した。つまり政府が進める年金制度改革の必要性も延々と説明したのだが、その一方で「最終的な決定はまだしていない」と改めて断言した。
結局、大統領は今回も自己の責任を回避するような、どっちつかずの発言に終始したといえるだろう。多くの国内メディアも「大統領はどの案も気に入らない」「最終決定はしていない」と、どちらかといえば年金制度改革に否定的な発言部分を引用していた。
興味深い世論調査がある。議会で年金制度改革法案が採択された場合のプーチン大統領の「現実の対応」と、「回答者が希望する大統領の対応」の両方を聞いたもので、民間世論調査会社のレバダ・センターが7月末に実施した。現実には法案に「署名し施行する」との予測が最も高いが、注目されるのは、プーチン大統領が最終的に拒否権を発動して「廃案」にするシナリオを期待・希望する声が7割以上に上ったことだ。「救世主」のイメージはなお根強いようだ。
年金法案採択時にプーチン大統領はどう対応するか
出所:レバダ・センター
同センターの調査では、かつて8割を超えていたプーチン大統領の支持率は直近ですでに67%にまで低下している。年金制度改革をめぐる先の大統領のあいまいな発言をみる限り、国民の不満や反発が自らにふりかかり、さらなる求心力の低下を招く事態を恐れているのは明らかだろう。
ただし、自らの責任を回避しようと、このままあいまいな態度を続け、議会が法案を採択した際にそのまま署名して施行させるようだと、「救世主」神話が一気に崩れ、逆に国民の不満や怒りが倍加しかねないともいえる。
「そろそろ政権交代の時期だ」「ロシアの政権は退陣を」――。7月末のデモや集会では政権そのものを批判するプラカードも散見された。年金制度改革をめぐるプーチン大統領の今後の対応次第では、自ら墓穴を掘るシナリオも否定できなくなりつつある。
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