
(前号から読む)
会社生活のピークは30代で、あとは落ちるだけ?
定年まで5年を切ったCさんが、最後に取り組むことになったのは「ミドルの働きがい」を向上させるための施策づくりだった。
50歳をまたいで地方転勤したCさんは、幸運にして生活の再構築ができた。その一方で、同世代の中には自分の居場所を失って空回りしてしまう人も多い。
ある程度会社員としてのゴールが見え、役職や給与で自分を満足させるのが難しくなってくる年代で大切なのは、これまでの働き方であったり自分の役割を見つめ直すこと。言い方を換えれば、「自分の緩ませ方」ではないか? 一度立ち止まり、緩ませ、自らを俯瞰することによって新たな視点を得て、新たなやりがいを見出す――。
では、そのためにはどうすればいいのだろう?
そんな疑問を胸に、Cさんはいろいろと資料を調べ始めた。「ミドル」や「50代」をテーマにした調査となると、内容的に厳しく暗いものが多い。そうした中で目に留まったのが、労働政策研究・研修機構の調査資料だった。
50代後半は、50代前半に比べると少し持ち直す
「成人キャリア発達に関する調査研究」という2010年の報告書で「50代就業者が振り返るキャリア形成」という副題がついている。中でも気になったのが、「ライフライン法」による調査結果だ。これは、自分のキャリアを振り返り、その浮き沈みをグラフで自由に書いてもらうという調査である。
上下の波について、明確な基準があるわけでないし、人によって傾向は異なる。しかし、全体を集計したグラフをみてCさんは唸った。
「たしかに自分も、30代が一番良かったかな……」
グラフは30代前半がピークで、40代後半から50代前半に向かって落ち込んでいた。学校を卒業して間もない時期は仕事にも不慣れだが、そこから段々とギアチェンジをして、30代になると手ごたえを感じられるようになる人が多いということなのだろう。
この調査には、少々意外と思われる点が一つある。50代後半は、50代前半に比べると少し持ち直すのだ。50代になって、「自分を緩める」ことに成功し、それまでとは別の視点で新たなやりがいを見出せる人が一定割合いるということなのかもしれない。
「あの頃が一番良かった」
そういう思い自体を払拭するのは難しい。ただ、それを前提にしながらも、会社生活の幕引きを前に新たな充実感を得ることも可能なんだな、とCさんは改めて思った。
「生涯現役?そんなのほどほどにすればいいのに」
次にCさんが行ったのは、60歳前後の人への取材だった。
社内でつてを探っていくだけではない。社外の勉強会に出席していくと、いろいろとネットワークができた。
「あの会社の○○さんは毎日を楽しんでるように見えるよ」
そんな噂を頼りに取材をお願いすると、想像以上に話を聞かせてくれた。会ってくれる人は、みなミドル以降のキャリアと上手に折り合いをつけた人だが、なかなかうまくいかない人の話も聞ける。
ある人は、学生時代から野球をやっていて、地元の少年野球のサポートをしていた。コーチから審判になり、50歳くらいからはもっぱら「世話役」だという。
「別に、週末に子どもたちの野球見てるだけで、もう十分に楽しいんだよ。あとは、大人の宴会の幹事ね」
いきいきとしている人たちは総じて、プライベートの時間について楽しそうに語る。ただ、その世界でも、なかなか「緩ませ方」は難しいらしい。いつまでも審判をやりたがるが、段々と視力が衰えて、トラブルの種になるような人もいるという。
「生涯現役?そんなのほどほどにすればいいのに」
彼は笑って話した。
また、「猫ボランティア」に取り組んでいるという女性にも会った。「一頭でも多くの猫を救う」という会だけれど、一定の距離感を保って関わるようにしているという。
「まあ、すべての猫を救うなんてできないから」
寄附など、自分でできることだけはきちんとする。あとは、気の合った「猫仲間」と会っておしゃべりをするだけだが、それで十分だそうだ。
聞けば彼女は、定年間際まで勤め先で要職に就いていたようだが、会の運営には関わらない。
「もう、妙なことで主導権争いが起きて、会社よりややこしいんですよ」
色々な人の話を聞いて、Cさんは感じた。プライベートを楽しめる人は、恐らく「自分の緩め方」もうまい。きっと、会社でも、キャリアの終盤を上手に”着地”させたのだろう。
では、そうでない人は、なぜそうなってしまうのだろうか?会社の外にまで、「会社での自分」を持ち込んでいるからではないのだろうか。
「会社での自分」を再定義する
会社で長い年月を過ごすと、仕事以外の場においても、「会社での自分」をベースに振る舞うようになりがちだ。特に相応の役職に就いていた人であれば、周りが自分を認め、承認欲求が満たされるのは当たり前。さらに、その心地よい世界でのルールを、社外でも適用しようとする。
「普通の会社ならこんな風にはしない」
プライベートの世界では会社とは異なるコミュニケーションスタイルを求めている人も多いのに、こんなことを言われたら、そりゃ興醒めだろうなとCさんは思った。実際、ボランティア団体などでも敬遠される人は、「会社での自分」の延長線上で振る舞う人だという話も聞いた。
ただし、「会社での自分」は、キャリアによって変容する。50代ともなれば、多くの人が、要職や最前線から外れていく。必然的に、周りが自分を認め、承認欲求が満たされるのは当たり前ではなくなる。にもかかわらず、「ピーク時における“会社での自分”」をベースに行動してしまいがちなところに難しさがある。
では、「会社での自分」という過去をひきずった自己認識を再定義するには、どうすればいいのか?そこには、2つの切り口があるとCさんは感じた。
1つは「時間」だ。会社で過ごす時間をジワジワと減らしながら、自らを緩め、客観視するための自分の時間を取り戻していく。それは「ヒマになってから」と後回しにするのではなく、意識的に取り組むべきなのだろう。
Cさんのある同期は、課長の頃から、できる限り自分の時間を作るようにしていた。他の課長は、部下に任せれば済む仕事まで一緒になってこなし、夜も親身につき合っていたりしたが、それは「単なる寂しがり屋」じゃないかと割り切った。そのやり方で業績が落ちることもなく、結局部長にまでなったが、以降も相変わらずマイペースだった。
「役員なんかになったら、面倒なだけだったからな」
その言葉は、何の負け惜しみにも聞こえなかった。
2つ目は「空間」だ。会社と自宅以外に「自分を緩めるための場所」を持っておく。行きつけの店でも、母校の図書館などでもいいだろう。また、インタビューに応じてくれたある人は、自宅近くの飲食店で交遊の輪が広がったのでいち早く定年後の「地元デビュー」ができたと話していた。
そうやって、時間と空間に「緩み」をつくれば、「会社での自分」を現状に即して再定義するうえでのきっかけになるだろう。さらに、慣れ親しんだ会社のルールからも適度な距離感を保てるようになれば、組織に過度に依存せずに自らの二の足でしっかり立てる、「社会での自分」を獲得できるかもしれない。そうなれば、自然と、社内外を問わず周囲との人間関係も変わっていくはずだ。
自分を知るための「休まない休暇」を
Cさんはそこで悩んだ。時間と空間を確保するために、会社としてサポートできることは何か? まず思い浮かぶのはまとまった休暇だが、単に休暇を与えるだけでは、「自分」の再構築にはつながらないかもしれない。ここは、ちょっと違う工夫がしたい。
思い浮かんだのが「サバティカル」という制度だ。取材の中で大学の講師を務める人に聞いたのだが、「自分で使い道を決める休暇」で、海外での採用例だと、長いと1年になることもあるらしい。
会社の事情を考えれば、そんなに長いのは無理だろう。であれば、1カ月、あるいは1週間でもいい。ただし、「自分のことを考える」ための時間として、あらかじめ会社には予定を出してもらう。何をするかは自由だが、その後にはレポートなどを書くことを課す。いわば「大人の自己啓発」だ。これは40代くらいから始めたほうがいいとCさんは感じた。
Cさんは、「ミドルの働きがい支援」をテーマに社内提案書をまとめていった。そして、核になる企画が完成した。
「ミドルのためのサバティカル休暇~時間・空間・人間関係の冗長性を発見するために」と題した提案書は、全体としては好意的に受け止められたが、肝心のサバティカル休暇は「預かり」となった。上層部でも相当な議論になったらしいが、40代からというのは、早期退職をイメージさせかねず、誤った受け止められ方をするのではないかという話になったらしい。ただし、50代になってからでは遅いだろうという意見も出て、決着がつかなかったようだ。
なお、提案書のタイトルにある冗長性とは、システム設計の世界で使われたりする言葉だ。設計の際に必要最低限のものに加えて余分や重複がある状態を指す。これにより、システムの機能は安定するという。
Cさんは、下された判断を全く悔しがってはいない。趣旨は十分に理解されたと感じたからだ。
種は撒いた。あとは、刈取りの時期を待つだけだ。
人はいろいろな人間関係の中に生きながら、自分自身を構築している。ところが、会社生活が長くなると「会社での自分」が、知らぬ間に肥大化してしまう。そうなると、どんな時でも会社の延長線上で振舞ってしまう。
自分のキャリアの「着地」とは、段々と自分を緩ませるながら、自分を再構築するプロセスともいえる。時間と空間を緩ませるためにも、40代のうちから、「サバティカル休暇」のような発想を取り入れて、自分を見つめ直す機会を作っていってはどうだろうか。
■ちょっとしたお薦め「リタイアした後の男たちの世界」にスポットを当てて、その姿を暖かい視線で描いた小説が重松清氏の「定年ゴジラ」だ。舞台は東京郊外のニュータウン。1998年の作品だが、ここで描かれるテーマには社会問題への先見性もある。もちろん、あらゆる年代の人にお薦めできる小説だ。
Powered by リゾーム?